2019年もやってまいりました、私的秋祭り。

ただ、食い合わせを間違えて大失敗したことも何度かある。
メモっておかないと。2018年秋のことよ。これ以前にやらかした大失敗は、ニューヨーク。MoMAの別館PS1。
2010年ニューヨークにて
姉さん、美術館博物館巡りが好きなんですが、度々申し上げている通り、現代アートとの相性はあまりよくなく、MoMAを見ても、おっと思ったものは大抵「デュシャン」か「ウォーホル」。
現代においては、見るべきものはいわゆる「美術品」ではなく、「工業デザイン」だと思うんだよ。パッケージだったり。映像作品だったり。そっち。

そういう人がPS1に行けば、「性的な」「人種的な」絵画や写真をもってきて「はい、革新的」(ドヤ という感性にダサさを感じて反発するのは当然のことで。
それ以来、現代アートには「あまり足を運ばない」という解決方法をとっています。
2018年フェルメールでお口あんぐり
じゃあ、これが、17世紀バロックの旗手、フェルメールだったらどうなるか。
食い合わせが悪いってこういうことかと。
2018年秋、私は一週間かけて京都・奈良と回ったわけよ。巡礼としか言いようがなかった。毎日国宝を見てたわけだよ。
最後が法隆寺で玉虫厨子だの、夢違観音だのを見て、奈良市内に戻って興福寺で阿修羅ちゃんを見て伊丹に行くわけ。
翌日、フェルメール(上野の森)・ムンク(都美術館)・ルーベンス(西洋美術館) と行ったの。そこで姉さん大混乱。
何があったって?
上野の森の手際の悪さ(私はそれなりにいろんな展覧会や博物館美術館などに行ってるけど、今まで行った所の中で最悪クラス)はさておき。
フェルメール、めっちゃつまらない。
フェ、フェ、フェ、フェルメールが?つまらない?
ええええええ?????フェルメール、何度か見てるけれど、その度に「すごいなあ。よく描くよなあ。この光よ」と思ってたんだよ。なのに、めっちゃつまらない。
ど、ど、ど、どゆこと?
混乱しながら外に出て一息つくと一つ仮説を立てることができた。そして、その仮説を証明するために、次はムンクに。
実は、姉さんはオスロのムンク美術館に行ってる。何枚か「叫び」のシリーズはあるのだけども、その当時は「叫び」の有名なのは盗難されてて見られなかったのね。
ここでなあるほど、と思い。その仮説をさらに強くするために、国立博物館に行って、常設展を見た。ここでずいぶんと「気分」が落ち着いたよ。
さらに補強すべく、今度は、西洋美術館のルーベンスを見て上野を離れて羽田に行った。
なぜフェルメールがつまんなかったのか。
理由はね。もともと私が「古いもの」が好きだったんですけどね。
一週間見続けていたのが国宝でした。もちろんフェルメールもその国の宝でしょう?
しかし、作った目的が違います。
京都で私が見続けたのは、神社仏閣です。空海の東寺に宇多天皇の仁和寺。藤原頼通の平等院に、足利尊氏の天龍寺。奈良もまた、聖徳太子の法隆寺、藤原氏の氏寺の興福寺を最後に見たけれど、その前も唐招提寺に薬師寺。東大寺そして正倉院展。
もちろん、ところどころ「豊臣秀吉が」「徳川綱吉が」というものがたくさんありました。秀吉と家光、そして綱吉母子のおかげで京都や奈良の神社仏閣があの段階でメンテナンスされたんだなあとつくづく思ったのですが。
これらはいずれも天皇や摂関家、そして足利・徳川将軍が手を加えてる。それは彼らの権威を誇るものであったか、彼らの祈りであったか、その評価はおいておいて。
宗教施設のスケールは、たとえ日本のものであっても、やはり「それなり」のものです。
それに対して、フェルメールは1630年代から1670年代の人です。短命だな。日本は江戸時代初期。つまり、家光の将軍就任が1632年。綱吉の将軍就任が1680年。ドンピシャで家光から家綱の時代のお人。実に!古い!
この当時のオランダからフランドルのバロック絵画は、オランダのレンブラントの絵画(風景・肖像・物語)、フランドル(現オランダ・ベルギー・フランスにまたがる地域)のルーベンスの歴史画と、これらはそれなりに大きなものですが。
それに対してフェルメールの絵画は当時の風俗を描くんですよ。それだけ市民社会が成熟していたことであり、市民社会が豊かだったことの現れです。
しかしながら、スケールが小さい。だってさ。「牛乳を注ぐ女」だもの。サイズも小さければスケールも小さい。広重の浮世絵ってびっくりするほど小さいじゃないですか。あれなのよね。
正倉院は確かに聖武天皇一家の私物なので「スケール」が小さいですよ。しかしながら、高貴な人たちの物なので、すばらしいんですよどれも。
聖武天皇時代の下々の人々と、フェルメールの時代の市民とどちらが豊かに暮らしたかは明白ですが。
次にムンクを見ると。この人は19世紀末から20世紀の人です。この人は「自己」に向き合った。スケールの問題ではなく、あくまでも「自己」に軸があるという点では、宗教施設の美術に近いものがあると思う。なんだかんだ、仏像を寄進して、お寺を立てて自己の救済を求めるところがあるじゃない。
フェルメールが自己を表現していないという話ではないけどね。
その後に東博で国宝をいくつか見ると、ずーっと見てきたものに近しいものが出てくるのでほっとしたということ。
さて、ルーベンス。ここはフェルメールのサイズの小さな絵画ではなく、大きいサイズの宗教画、聖書なり、神話なりの物語絵画が出てきます。絵画のモチーフのスケールが大きくなると、これまでずっと見てきた「気分」にフィットするということ。
お金も時間もないんで、東京まで行かないとフェルメールを見られないし、それが正倉院の直後に設定せざるを得なかったの事実なんですが。
食い合わせって大事よね。
さて2019年。また出すけど。

九博の三国志は一日別の日に行けると思う。12月かな。
奈博の正倉院はその日のハイライトはここだけなのでよし。
問題は東京の上野ワンデー。正倉院(東博)、ミイラ(科学博物館)、ハプスブルク(西洋美術館)。
ハプスブルク展は大昔に福岡で見て、マクシミリアンの鎧に感銘を受けたのね。ウィーンでマクシミリアンの鎧を見て実に嬉しかった。ウィーンで静かに見た宝物を西洋美術館で押し合いへし合い見ることになるんだろうけれど。
しかしながら、ハプスブルク家のものと、正倉院って通じるところがあるじゃない??
ミイラは完全に別物だし。
多分、食い合わせが悪くないと思うの。