このページの内容をまとめると
今回の裏テーマが「とはずがたり」。
石清水八幡宮も重要な舞台ですが、この日のテーマは実は「徒然草」。
お気に入りは「仁和寺の法師」ものです。中学生の頃は「にんなじ」って聞くだけで笑い転げた。なお、この日の翌日が仁和寺でした。⇒仁和寺で金堂の裏も見てきた
仁和寺にある法師、年寄るまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩よりまうでけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果たし侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」と言ひける。すこしのことにも、先達はあらまほしき事なり。
(五十二段)
・http://www.iwashimizu.or.jp/
「おほっほ。今はねえ、男山ケーブルカーがあるから、登らなくていいのよ。仁和寺の法師さん」、ってスニーカーだけどスカートで行きました。
なお、姉さん、よく「清水寺」のことだと間違える。
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——————————引き続き「姉御の一人旅ガイド」をお楽しみください。
男山ケーブルカー、メンテ。仕方がないので徒歩で登って降りた
運休だった。ぎゃー!
ここまできたら、登りますか、と、登ることにしました。タクシーは3000円くらいだそうですよ。
このときは、台風の影響で裏参道は通行禁止で(でも地元の人っぽい感じの人たちが通ってた)、表参道のみ通行可能でした。
一の鳥居をすぎて
行きまっしょ。
なお、ここの走井餅は降りてきて食べた。
頓宮
一の鳥居を潜って抜けた先が「頓宮」。
ここもまあ、立派なお社です。
山の上に本殿があるときに、下に小さめの神社仏閣があることはすごく良くありますが、ここはそんなもんじゃなかった。
儀式を行う場所なんです。銅板ぶきになっているのがちょっと残念だけど、上に上がるとね、「桧皮葺のメンテって本当に大変だもんなあ」って思います。ここの門もなかなかかっこよかったよ。
高良神社
今回私がヘロヘロになって行けなかった極楽寺と、この高良神社まで来て満足して仁和寺の坊さんは仁和寺に帰っちゃったの。仁和寺にいる坊さんですよ。大きな神社には慣れてるだろうに。
だからうんっと大きなね、大きな山の上神社の、その下にある神社で、さぞ立派なんだろうと思ったら。これ。
正面に何か舞台になるようなところがあって、右側に本殿があります。それだけなんですよ。
あっけに取られました。
当時から縮小したんですかね?頓宮を「石清水八幡宮」と思ったんならわかるんです。え?ひょっとして鎌倉時代に頓宮はあったんだろうか?とかさ。問題はある。まあ、当時のままの場所に、当時のままの規模であったとしますか。
さて、二の鳥居に向かう前に。
ふと横を見るとこんな感じになってます。
かっこいいね!
この先、登って本殿と展望台に行く話はこっち。⇒八幡:石清水八幡宮、表参道を登って降りた
さて、「徒然草」の「仁和寺の法師」についての考察です。
二の鳥居と頼朝の松を見ながら「仁和寺の法師」って?
源頼朝が石清水八幡宮に来て、松を植えたらしいんですよ。これが二の鳥居の前にあります。
当時のものが残っていたらこんなヒョロいわけがなく。これは二代目。
ここで問題が出てくる。そもそもここで笑い者にされる「仁和寺の法師」っていつの人なんだろう。
仁和寺そのものは、平安時代の中期、と言っても前期に近い、光孝天皇の発願、息子の宇多天皇時代にできています。仁和寺の開祖宇多天皇の時代の人というと、歌人の伊勢。そして菅原道真。当時からそれなりに名前があっただろう、紀貫之。
つまり、「源氏物語」どころか王朝文化の基礎を作る「古今和歌集」の成立前夜。いわゆる平安時代の国風文化が花開き始めた頃です。古今和歌集は、宇多の息子、醍醐天皇の時代です。治世の長い醍醐天皇ですが、古今和歌集はまだ醍醐天皇即位から10年くらいのものなので、宇多時代の和歌もかなり多い。
対して「徒然草」は鎌倉末期に成立しています。「徒然草」の中には、今回の裏ストーキング対象の西園寺実兼(「とはずがたり」の「曙の雪」)の話がある。実兼の三女が後醍醐天皇の初めの中宮で、この後醍醐天皇の中宮を訪ねて西園寺実兼がやってくる話があるんですね(118段)。そこから見ても、明らかに徒然草は後醍醐天皇の若かりし頃以降に完成してる。そして後醍醐天皇と足利尊氏でしばらくあんなこんなで、室町時代に突入。
今回の裏テーマの「とはずがたり」とも比較してしまえば、「とはずがたり」の後に「徒然草」の成立と踏める。
何れにせよ、宇多天皇が890年代で、後醍醐天皇の即位が1310年代なので、この間、400年あります。400年の間に何人「仁和寺の法師」がいるんだよ、と。
ただ、そもそも徒然草って噂話が多いし、やはり今回の仁和寺の法師は作者と同時代の人なんじゃないかと思うのよ。せいぜい、ほんの少し前の人。「とはずがたり」の時代よりも遡りそうにないんじゃないかな。
で、ここ「頼朝の松」の話題に戻る。
もう一度出すけど、この写真。頼朝の松のすぐ近くに二の鳥居がある。上の二の鳥居は、写真は降りてきてから、高良神社に「無事に上まで登って降りられました」ってお礼をいいにいく直前に撮ってます。レンズが単焦点なんで、引きで取らないとならなくて、もう高良神社の近くにいた。
もちろん、鎌倉時代に二の鳥居が本当にここにあったのか。そして昭和二十年代に最後の頼朝の松が倒れて、二代目を植えたというけれど、それは本当にこの二の鳥居の前だったのか。その問題がある。仁和寺の法師の時代、松林になってて、見通しが悪かったのか。
しかしねえ、鎌倉時代の人なら「頼朝の松」って知ってると思うんだよ。室町時代以降の作り話じゃないならさあ。それを見に行ったら「二の鳥居」を見る。
高良神社から、頼朝の松までは本当にすぐなの。二の鳥居が見えるんだよ。
「みんなが山を登っていくから、何かあるんだろうと思った」じゃないの。彼が見たのはおそらく「二の鳥居を潜って山に登る」であって、ただの登山じゃない。鳥居をくぐるんだから、その先に神社があるってサインじゃないですか。
馬鹿だねえって作者・兼好法師は笑うんだけど、本当に馬鹿ですかね、この人。意図があって登ってないような気がするんだよ。と、思ったの。
面倒になってわざと登らなかったんじゃないかと思ってたのね、私。それで「何かあるんだろうけどさ」ってうそぶいたんだと思ってたの。⇒姉御、高雄の摩天楼で仁和寺の法師に思いを馳せる
サンクコストを切り捨てた?
私は、「仁和寺の法師も変な人だよねえ、ここまできて、わざわざ登ってないんだよね」って思ったの。
そう思いながら登るわけよ。
もう、写真なんて撮れないのね。余裕がなくて。
登りは一枚だけ。これは橋本坊という、足利氏の祈願所の跡です。義満の母が石清水八幡宮にゆかりのある人だったと看板にあったし、室町になってからでしょうかね。なお、下の方。
下りはこれだけ。
三の鳥居の坂を下り終えて、多分、「これから石段を降りるぞ」というところね。ここから果てしないからね。
これは表参道で、裏参道もあります。これよりも急らしいよ。(この時は裏参道は台風の影響で通行禁止)
私、足で登って降りて、思ったの。
これ、サンクコスト。埋没費用。
- 京都まで来た
- 京阪を乗り換える時にケーブルカーが止まってると知った
- それでも八幡市駅まで来た
これねえ私のエネルギーと時間と旅費の、すでに回収できない「費用」だった。
私は「せっかくことまで来たんだから」って登った。これがねえ、使った時間とエネルギー(=費用)を増大させることになるわけじゃないの。
これをこの仁和寺の法師は嫌ったのではないかと。
公共交通機関のない時代のことを考えてみよう。法師は徒歩だ
仁和寺から石清水八幡宮まで19キロちょいです。
これが、Googleさんのだしたルートと時間です。京都なんで、多分鎌倉時代の道と今の道は大きく変わってないんじゃないかと思うの。歩いた距離はそんなに変わらないんじゃないかな。確かにどこで川を渡ったかという問題はある。橋はいつできたのか、みたいなね。
淀川を渡るので、秀吉が橋をかけてる、もしくは落としている可能性も調べたほうがいいと思いますけども。
なお、この人、お坊さんです。朝が早くて夜の早いお坊さんなんですよ。
朝のお勤めを終えて午前7時くらいには出たとする。仁和寺から歩いて3時間ちょいでここまで到着するかな?Googleさんは歩きっぱなしで設定しますが、人間なんでね、法師は少し足を休ませたんじゃないかと思うの。途中で極楽寺にも寄ってるんで、4時間以上歩いて石清水八幡宮まで来たとしますね。ここで11時をすぎている。
仮に極楽寺で話に花が咲いたとしたら(だって、この人、あの「仁和寺」の法師なんだもの。高僧ではなくても、門跡の性助法親王(仮)は、みたいな話になるかもしれないじゃない。もっと時間がかかってますよ。
本当に、こんなお寺よ、仁和寺って。⇒仁和寺で金堂の裏も見てきた
(仁和寺)
宇多法皇以来、門跡は皇室から来ているお寺だからね。噂を聞いてみたい人はたくさんいるって。
時間。多分登っている時間がなかった
今の仁和寺の拝観は17時で終了。他のお寺もそうですね。
なら、当時も17時くらいには寺の門って閉まるのかもしれないなあ。作者は「僧都」って単語もちゃんと使うんですよ。(とある僧都が、とある坊さんに「しろうるり」と名付けた話もある)。「僧都」ではなくて「法師」なので、高僧ではなさそうでしょ?厳格な門限がなかったとしても、この人には何か夕刻からのお勤めもありそうでしょ。17時には到着したいとして、帰りはまっすぐ戻るとしても、疲労があるのでやはり4時間。13時にはここから出ないとならない。
綺麗に時間を書いてみましょうか。
07:00 仁和寺を出る
11:00 極楽寺
12:00前 石清水八幡宮到着
そして逆算しよう。
17:00 仁和寺到着
13:00 石清水八幡宮出発
むむ!本当に1時間しかないんですよ。
もうちょっとさっさと法師に歩いてもらおう。
07:00 仁和寺
10:30 極楽寺
11:30 石清水八幡宮
極楽寺にも寄ってるし、11:00よりも前に到着するのってきついよ。
こうしても、13:00に石清水出発したいから、2時間もここでとるのが難しいんです。
本殿までは私ですら40分で登っているので、当時の人ならもう少し早いでしょう。若い法師なら駆け上がったかもしれないけれど、この法師、おじいさんです。でも、私よりも体力がありそうだし、まっすぐ登って降りるなら、多分60分あれば十分。山にある各寺社を巡り始めるとそれどころではないだろうけどね。60分でまっすぐ本殿と往復して、本殿では拝むのと休憩だけにして30分としても90分!
むむ!
ロボットじゃないんだし。結構膝にくる石段だからさ。石段を登って降りるならば、降りたところでもどこかで休みたいよね。15分でいいからさ。
私も休んだよ。法師の当時はこの走井餅はないと思うがね、今宮神社のあぶり餅のようなものはあったかもしれないじゃない?⇒今宮神社で、名物あぶり餅の二店をはしごして食べ比べ
仁和寺の法師、多分石清水八幡宮の下で自分の体力と使える時間を考えるんだよ。「やべ。登ってたら門限(というかお勤め)に間に合わない!?」みたいなことを。
帰りたい時間に帰れないリスクを考えれば、ここまで来たこともこれから帰らないとならないのも全て切り捨てるべし、って。
山体を拝んだからいいことにするよってことで。
多分途中の道中、それなりに休み休み仁和寺に戻ったんでしょう。
多分、法師のスケジュールはこうだ。
07:00 仁和寺
10:20 極楽寺
11:20 石清水八幡宮に到着
13:00 石清水八幡宮を出発
16:45 仁和寺に到着
帰って「どんなところでした?」って聞かれて「みんな山に登ってたんで何かあるんでしょうね」ってうそぶいてみせた。それを真に受けたのかね、兼好法師は。
いやー、これねえ。京都で自分で神社仏閣巡りをして、そして自分の足で石清水八幡宮を登って降りてみて思いついたことでした。
兼好さん、ひょっとして自分では石清水八幡宮には登ってないんじゃないかなあ。それとも、大っ嫌いな仁和寺ネタ!って飛びついて、法師の意図はわかってるんだけど法師がおバカさんに見えるように書いたのかな。
ちゃんちゃん
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