奈文研の藤原宮跡資料室を堪能しました。⇒藤原宮跡
じゃあ、次は?
同じく奈文研の飛鳥資料館をめざすことにしました。歩いたルートはほぼこの通り。結構平坦です。飛鳥時代藤原時代の人なら、「昔の家(飛鳥)から今の家(藤原京)までちょちょい」だっただろうと思う。
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——————————引き続き「姉御の一人旅ガイド」をお楽しみください。
農村であり、住宅地であり、工房あり、なので
途中にどこかによるならば、西側に紀寺跡、東側に大官大寺跡があります。どちらも少し遠くから見たけれど、田んぼかな?という感じでパスしました。途中、天香久山の麓の「天岩戸神社」に寄ったりしましたが、写真はやめておこうかな。
なんと申しましょうか。農村であり、同時に住宅と工房のあるようなところの、奥まったところなんですよ。その奥まったところこそ、天香久山でしょうけれど。
生活の気配のある写真はないですが、史跡になってるわけではないし、ちょっと他人さまの迷惑になるといけない。
皇太神社
Google Mapsでは「甘樫坐神社」という表示になっていますが、これは皇太神社です。
「奥山」というところのようで、確かに飛鳥宮あたりから見ればの奥の方にあるような気がする。この山の反対側に、奈文研の飛鳥資料館がある。
結構な階段でございますわね。
この日は甘樫丘に登る気でおりまして、今日は無理。したから拝みました。
そしてこの周辺もまたふるーい農家さんらしく、その建物を見るのもまた楽しい。
奈文研飛鳥資料館はマスト!
明日香の楽しみ方というのは、遺跡に行くしかないわけで、野山を歩かざるを得ない。
これは雨天の時には厳しい話です。近畿以外から行くならば雨の日を外せというわけにもいかないでしょ。で、明日香には博物館めいたものがいくつかあるのですが、飛鳥資料館はマストオブマスト。
藤原宮から歩いてきたら、農村地帯の先にこっちが現れるけれど、ここは観光客向けの入り口じゃないから要注意。
ぐるううううううっと回るんだ。
これは敷地の門くらいからだからアップしてもかまわぬと思う。
そうです、「個人の撮影は可能。しかし、」パターンで、今回は「ホームページにアップするには事前に申請が必要」と明記されておりますからね。「ホームページ」の中に「個人ブログ」が該当するか不明ですが、「姉御の一人旅ガイド」は個人が運営している旅行ブログにしては、この時代の今でもPVがあるものね。
https://www.nabunken.go.jp/asuka/access/#area_photograph
上の写真には、なんか変なもんがいくつか写ってるような気がすると思うんですが、ここには「飛鳥の石造物」のレプリカがあります。ほぼ全てあると思う。
亀石・猿石・石人像・猿船石・高松塚古墳の石室とかさ。噴水構造のある須弥山石は噴水として展示。
なので、各遺跡を巡るのが困難な天候や、足が悪い場合でもこの庭園部分(無料)だけで、石造物だけは見ることができます。石造りのベンチっぽいものもあるんだけど、これは飛鳥の石造物のレプリカなのか、レプリカではないのか一瞬?????って感じになるわけだ。
修学旅行か社会見学かっぽい中学生のグループがパラパラと興味なさげにくるんだけど、中には一人くらい大興奮してる子がいると思うんだけどな。
中の展示で大興奮。とくに山田寺
資料館では奈文研の発掘した品々や、復元品などがあるわけです。これだけ見て300円ってどーゆーこと。もうちょっと取ってください。(あ!事前に写真撮影の申請をしてお金を落とせば良かったのか!)
藤原宮跡資料室には行けなくても、こっちの飛鳥資料館に来れば藤原宮のものもいくつか展示してあります。⇒藤原宮跡資料室
キトラの四神の館に行けなくても、ここならキトラの陶板複製があります。⇒キトラ古墳
さらに、高松塚古墳の発掘調査に使った機械なども置いてあって、もう、僕は大興奮だよ。⇒高松塚古墳
ここのハイライト中のハイライトは、多分山田寺。
この明日香資料館のある場所は、明日香村ではあるけれど、「橿原市」「明日香村」「桜井市」の三つが隣接しているポイントが近く、資料館を出てすぐに「桜井市」の表示があるのね。
で、目の前の道を桜井市側に走ると、多分すぐに「山田寺」がある。疲れた。。。と私は行かなかったんだがね
山田寺とは
さあ、今回の副読本「日本書記」の出番です。「山田」ってつく人がいたの覚えてません?
そうです。乙巳の変のクーデターメンバーの一人、「蘇我倉山田石川麻呂」ですよ。「そがのくらやまだ」というのは名字ではないんだろうな。「蘇我」氏のなかの「山田」に倉を持ってる「石川麻呂」、ということでしょうかね。
石川麻呂も入鹿同様蘇我馬子の孫にあたる人で、入鹿とは従兄弟の関係だった。中臣鎌子が中大兄皇子に「蘇我氏の中からも(不満を持ってる者をメンバーに)引き入れましょう」と言った、あの人です。中大兄皇子は石川麻呂の二人の娘をめとり、その一人から大田皇女・鸕野皇女・建皇子の三人、妹からは御名部皇女、阿閉皇女の二人が生まれます。
大田皇女・鸕野皇女は共に大海人皇子の妃になり、鸕野こそ後の持統天皇です。天武天皇と持統天皇を両親に持つ草壁皇子の妻が阿閉皇女。阿閉皇女が後の元明天皇です。だから、持統と元明は父方から見れば異母姉妹であり、母方から見れば従姉妹だった。御名部皇女は高市皇子の妻になり、あの長屋王を産みます。⇒長屋王邸宅
長屋王の妻は吉備内親王といい、草壁皇子と元明天皇の娘(文武天皇・元正天皇の姉妹)だから、母親は藤原氏だわ、妻も藤原氏だわ、な聖武天皇が長屋王一家を警戒したのが想像つくよね。
さて話は中大兄皇子時代に戻るけれど、中大兄皇子は石川麻呂謀反の密告を受けて石川麻呂を攻め石川麻呂は一族とともに「山田寺にて自害する」が、後に無実だったことがわかる、というのが「日本書記」です。なんか斑鳩の上宮王家(=厩戸皇子の子ら)の滅亡のシーンを彷彿とさせるシーンでしたわよ。
また話は脱線するが、考えてくれ、「日本書紀」は持統天皇で終わるんだよ。「続日本記」に養老年間に舎人親王に(日本書紀の)編纂の命令があったというけれど、養老年間って元正天皇なんだよ。舎人親王って天武天皇の皇子なんだよ。元正天皇に向かって、「あんたの父方のばあさんの祖父であり、母方のひいじいさんでもある人は謀反人で、あんたの父方のひいじいさんであり、母方のじいさんでもある昔の天皇に誅されました」とは言えない。いくら叔父でも死にそう。死ななくても「太宰府へお行き。二度と帰るでない」って言われそう。
再び山田寺に話を戻すけれど、この寺は持統天皇・元明天皇からみれば自分の母方のじいさんが建てた寺で、ここで母方の一族は死んじゃったわけです。天武天皇時代には結構な大きさのものになったようですが、そりゃ、皇后は鸕野だもの。
この山田寺の、東回廊が倒れた状態で地中に埋もれているのが見つかってるんですよ。(愛しの)法隆寺のスタイルとは、また違った様式なのがわかったという話。⇒法隆寺
この東回廊が保護しながら組み上げてあるの。このページで十分という人は十分なんだぜ。
https://www.nabunken.go.jp/asuka/annai/room2.html
奈良に戻って行くべき場所は、実は興福寺国宝館
この翌日に奈良に戻るのだけど、行くべきところは興福寺。⇒興福寺
は!?なんで興福寺?そのまんま、近くの山田寺に行くべきじゃないの?と思った人、手をあげて。
上のリンクの写真に頭だけある仏像(それもかなりでかい)があるのがわかったかな。これ、レプリカです。
本物があるのは興福寺の国宝館だもん。
(今回の写真じゃないわよ。2018年の写真です。)
見るべきものは、興福寺の銅像仏頭(旧東金堂本尊)です。これが、上のリンクにあった頭だけの仏像の本物です。これまた写真撮影不可だから、興福寺のHPのリンクを貼るよ。
https://www.kohfukuji.com/property/b-0034/
説明にしれっと書いてあるよね。「天武天皇が亡き石川麻呂のために作った山田寺本尊の頭部」って。「1187年に興福寺東金堂本尊薬師如来像として迎えられましたが、」
(興福寺東金堂。同じく、2018年)
ってはぁい、思い出そう。
1192年後白河天皇没。遡って1185年壇ノ浦の戦いで平氏滅亡。1187年ってもう頼朝政権でよろしかろ。清盛時代に何がありましたかね。1181年南都焼き討ち。その4年後に滅亡するんだから「奢れるものも久しからずや」でございますわよ。
当時興福寺は僧兵を養っておりましたからね。南都焼き討ちのメインターゲットは興福寺でした。その後、廃仏毀釈のターゲットにもなりました。奈良にいると興福寺って気の毒に、って思うんだけども、飛鳥にいるとお前か興福寺、って気分になる。
そうですわよ、山田寺から本尊と日光・月光セットで興福寺が持っていっちゃったみたいなの。
しかしながら、ニューヨークのメトロポリタン美術館で、特にオリエントの物を見ると多少脳味噌があれば苦々しく思いながら見るものだと思うけれど同時に「メトロポリタンが持っていったから今日の我々が見られるんだよな」と思うわけです。
それと同じことを思うのね。山田寺は、法隆寺にはなれなかったんですよ。興福寺が持っていったから、この仏頭は残ってるし、日光・月光は今でも東金堂にあるんだもの。
https://www.kohfukuji.com/property/b-0050/
日光・月光は仏頭よりも新しそうだ、7世紀末ではないか、って。694年藤原京遷都(持統天皇)、701年大宝律令(文武天皇)ですから。持統天皇時代なんでしょう。
大抵の人が素通りする、仏頭の前で泣き崩れかけました。
飛鳥資料館からは
当日の私のルーティングに戻ると「奥山」のバス停まで歩きました。「飛鳥資料館」のバス停にバスが止まらないわけではないんだけど、本数が少ないので、最寄りの「奥山」まで歩くが吉。
足が痛くてバスに乗りたかったわけ。降りたのは飛鳥寺。⇒飛鳥寺