誰も聞いてないけど、姉さんの好きな和歌は「春すぎて夏来たるらし 白妙の衣干したり天の香久山」万葉集版です。定家版じゃない。万葉集は、ぶわあああああっと一気に色が見えてくる和歌があります。
正直、今の天皇家には興味ないんだけど、私の推し天皇は持統一択。これマジよ。二番目以降は嵯峨っちかな、宇多っちかな、醍醐ちゃんかなってことになってくるけど、持統さまは不動のトップ。
その持統ちゃんが遷都したのが藤原京。
誰も聞いてないけど推し皇后は光明皇后一択。もう、光明皇后の「藤三娘」の署名の字のかっこよさったらないよ。惚れ惚れする。正倉院展で光明皇后直筆の何かが出てきたら、めっちゃ嬉しい。
とうとう来たぞー!藤原京!
藤原京とは
694年に持統天皇が定めた、我が国最初の中国式の都城です。
その前持統が長くいたのは、夫・天武の飛鳥浄御原宮です。その土地、そのエリアは重層的に建物があった痕跡があり、持統の祖父母もそこに宮を構えていた。⇒飛鳥宮
飛鳥の地はそれなりに広いのだけど、碁盤の目の、中国式の都を置くには、多少高低差があるのよ。防衛しやすいのではなかろうかと思うけれど、都市として展開していくには狭すぎるというよりも、丘あり川ありだもの。
こっちが飛鳥宮。
この撮影ポイントの背後は住宅地ではあるが、わりにすぐに坂になっていく。狭くはないが、広くはない。
その前も結構、サクッと遷都めいたものをする人たちはいても、なんだかんだ戻ってくるのがこの飛鳥の地。
天武の時代にすでに既定路線であったようだけど、持統は飛鳥の地を本当に捨て、持統以降の人が遷都しても「飛鳥」を選択する人はいなかった。それはこの狭さが理由ですよねえ。
例えば持統からみれば息子の妻であり、同時に異母妹でもあった元明天皇は藤原京を捨てて平城京に遷都する。その中心地だった平城宮を出してみるとこうなるでしょ。⇒平城宮跡歴史公園
これ、撮影ポイントの背後に大極殿がだいぶ小さく見えてる。
ここはもともと町があったけれど、大正期にこのエリアをどんどん買い進めて行ったグループがあり、最終的に買収完了して国に寄付し、どんどんどんどん広がっていってる。
じゃあ、藤原宮跡は?
藤原宮跡
どーん。
橿原市のコミュニティバスを降りて、こう。
うわああああああああああああああああ、きたあああああああ。
結果的に四角形の角と角を斜めに歩くんだけど、かなり広いのよ。
ただし、建物は復元されてなくて、柱が置いてあるだけです。平城宮跡は平城宮跡でいきなり異界に入る感じがあるのだけど、こっちはこっちでいいと思う。
公園状態になってるところだけではなく、一部田んぼなのでそっちには入らないように。稲刈りの後だから広く見えるのだと思う。
建築様式の変化
そして、飛鳥宮跡の建物は、穴を掘ってそこに柱を入れる「掘立柱建物」だった模様。
どういうことかというと、こういうスタイル。
しかし、藤原宮跡では礎石の上に柱を乗せてるようなのね。
つまり建築様式がガラッと変わった。
私、乙巳の変からでもいいのかなあ、白村江の敗戦から壬申の乱までが、黒船来航から大政奉還まで。天武天皇の即位から大宝律令までが、大政奉還から大日本帝国憲法公布までの感覚に近いんじゃないかと思うんだ。
明治維新から「文明開化」「脱亜入欧」ってやったじゃないの。あの時代、建築様式も、西洋建築を取り入れた建物がどんどん建設されていくでしょ。ル・コルビジェ(フランス)とかさ。フランク・ロイド・ライト(アメリカ)にジョサイア・コンドル(イギリス)なんて来るじゃないですか。その後に、辰野金吾ら日本人建築家が活躍する。
あんな雰囲気じゃなかろうかと思うの。百済からの亡命渡来人の中に建築屋さんがいたりさ。
これは愛しの法隆寺です。前身の聖徳太子の斑鳩寺時代のものよりも、天平年間に建てられたものが多いようなので、藤原京の雰囲気とは行かないと思うんだけど、高床式の倉庫です。
見せたいのはこれよ。石の上に柱が乗ってるでしょ。⇒法隆寺
藤原宮は694年から710年までの16年間しか使われなかったのだけど、理由は遣唐使が帰ってきて長安の様子がより正確に把握できたからって橿原市の資料室に書いてあったような気がする。
663年が白村江の戦いですが、中大兄皇子(後の天智天皇)は665年にはもうすでに遣唐使を出してる。敗戦処理ですよ。669年に出してから、天武・持統は遣唐使を出してない。
文武天皇時代の702年になって遣唐使を出すのね。山上憶良が唐に行く回です。ところが彼らが行った先にいたのは武則天です。唐ではなくて周になってます。702年だからまだ持統上皇がギリギリ生きてます。
びっくりしながらも「え?女帝?うちの先代は女帝ですよ?そうそう。こちらの女帝同様、皇后だったんですが即位して、今は孫に譲位して上皇になってます。牝鶏晨す?まっさか。上皇のもとでまとまりましたよ。ところで、律令作ってみたんです。そうですそうです。上皇時代に作り始めたんです。ですです。女帝はいつでも偉大なり。でさ、ちょっと見てくれませんか?」なんて平然と言ってのける人がいそうです。
その中には「今、うち、百済の遺民と一緒に新しく都を作ってみたんですけれど、なんか唐っぽくならないんですよ。唐っぽい建物を作りたいんですけれども」なんて、建築を学ぶ人なんかもいたのよ、きっと。
姉さんの頭が壊れてるの、今気づいたの??
長安じゃなかった、西安行きてえなあ。2021年5月に西安に行くチケットを予約してるんですけど、使えると思いますか?私は思いません。
大和三山。ちっちゃい。
「聖なる山が三つあるのが良い」と言って、持統はこの地に遷都します。三方が山に囲まれていることは、平城京も、平安京もそうなんです。奈良市を前提にしてしまい。春日山に、平城山、生駒山(つまり平城京の三山)みたいなんだと思ってた。
れっつ大和三山。まずやってきましたのは畝傍山ちゃん。
手前のちっちゃいのだよ?奥じゃない。
次。耳成山ちゃん。
さすがに手前のこんもりした森じゃなくて、その奥。
日本書紀には、推古天皇が「耳梨の行宮」に行ったという話があるので、それも藤原宮からそんなに遠くないのかなあ。
天香久山ちゃんときたら。
正面のこんもりしたのが、天香久山ちゃんだと思うの。こっちはそうだと思う。
この右の奥です。
へ?ここに白い布を干すの??
私、ずっと若草山にぶわああああああああって藤が咲く感じで想像してたのよ。遠くから見たらきっと白い布を干したようじゃない?
文字通り、布を干すの??
http://www.pref.nara.jp/27362.htm
https://www.nabunken.go.jp/fujiwara/index.html
橿原市藤原宮跡資料室
バスを降りて、先に行ったのはこっちでした。市の資料室は、JAの二階にあります。
ちょろっとあるだけ。でも、発掘されたものもないわけではない。ただし奈文研だけでいいのではなかろうかと思う。
https://www.city.kashihara.nara.jp/article?id=5c3524aef1a7f00f31b1f58e
奈文研藤原宮跡資料室はマスト
天香山の麓にあるのがこっち。奈文研です。ずいぶん立派でしょう。
ここは博物館というよりも研究所ですから。
写真撮影してもいいか聞くと、撮影は可能だけど、アップロードしないでほしいということでして、アップしない。
一部記憶にあるもの中では、藤原京の塀と平城京の塀は作り方が違うけれど、一部平城京に持って行ったという話とか。これは外ね。
また、飛鳥の宮は「飛鳥板蓋宮」というように、基本は瓦ではなかった。
瓦葺の建物は、仏教寺院からだったのね。⇒元興寺
だから飛鳥寺、山田寺、川原寺のような古いお寺の瓦の展示などがありましたよ。
https://www.nabunken.go.jp/fujiwara/exhibit.html
橿原市のコミュニティバスは、藤原宮跡の横をぐるっといくのね。天気があまり良くない日などは、私のように「橿原市藤原宮跡資料室」で降りるのではなくて、奈文研に近い「木之本町」というバス停で降りる方がよろしいのではなかろうかと思います。
土日ならば「奈良文化財研究所藤原宮跡資料室」のバス停にも止まりますし、橿原神宮駅までいくので、そちらの方が便利かも。