奈良県は第二次大戦で大規模な空襲を受けてないのよね。小規模なものは受けてても、我が街のように焼け野原になったわけではない。
焼け野原になってない県からは、びっくりするようなものが出てきます。
そもそも世界中の寺院の中で一番素晴らしいものだと思ってる法隆寺がそうですし。毎年正倉院展に行ってる正倉院(を持ってた東大寺)がそうですし。興福寺からは仏像が流出していったけれど、それでも国宝館と言い切れちゃう興福寺もそうですし。
そのレベルでカウントしても良いのではないかと思うのが、橿原市の今井町の町屋エリアです。外側の飛鳥川側から。
中に入ったら、こんなもんじゃないから。
人の住んでいる町屋エリアだから、観光客は静かに。そっと
旧宅を公開しておられたのは、弘前市の中級武士のエリアもそうだけど、あちらは江戸時代の建物は片手で数える以下です。⇒弘前市内に点在する、古い建物を見て回ろう
今回中を見せていただいたのは「旧米谷家」という、肥料や金物を扱っていた商家です。弘前は武家でも寒すぎて瓦屋根ではなかったけれど、こちらは瓦屋根なんだなあ。
お隣も似たような感じなんでわかると思うんだけど、今井町は一区画まるっと町屋エリアなの。
重文だけで8軒。これ以上はちょっと、ということで指定しないけれど、というようなエリアです。気候も、弘前よりも橿原の方が(少しは)穏やかなのでしょうね。
公開しないわけではない重文がいくつもあるのだけど、玄関が開いてないようなお家は、多分まだ時間じゃないだなとか。そんな感じだから、無理に開けようとしたりしちゃいけませんよ。
中に入れていただきましょ。天井は葦葺だと思う。黒竹ではないんじゃないかな。
家の中で火を使うので、天井を高くして煙を逃すわけ。
中二階のようなところは丁稚さんのお部屋だった。
台所など、アーティスティックに飾ってありました。
私は当時のものが見たい。
庭に出ると、雪隠かなあ。
右側にあるのが蔵で、蔵前座敷まであった。
あまり広くなくて、隣から声が聞こえてくるのよ。
維持できる豊かさ
「今井町」の内側からの写真も撮影しているけれど、中が町屋民泊に、町屋カフェ()ばっかりになっちゃってるような、町屋エリアではなくて、住人のみなさんがまだ住んでおられると感じなところに最大の価値があると思う。
想像してみれば良いんだけど、重要文化財は決して居住性の良いものではなく、維持にとにかくお金がかかるわけよ。冬の寒さの厳しい弘前で、江戸時代の紙と木の家に住めますかって話。姉さんは無理です。橿原も(奈良県の人が多く住んでいるところは)広い盆地の中だから、冬は寒くて夏は暑い。住居にするよりも民泊にしたり、観光客が来るようになればカフェにして自分たちは別のエリアに住む選択をしても、その人にとって経済合理性のある選択です。
現に今井町にも町屋カフェやレストランが全然ないわけではないようですし。
私みたいなカメラ片手に無責任にぶらつく観光客で溢れてるわけではない(それはこの時期だから?まだ朝の10時だったから?)。
だから、紹介したいようで、一観光客としては紹介して良いのか迷ってしまうところがあるし、リュックから大きいカメラ(って大きくないα5000だけど)を出して撮影するのが憚られ、全てスマホ。
なぜにこの地?
今井町は江戸時代は自治都市だったというわけで、多分今でも橿原市の中では結構異質なところなのかも。
近鉄線の地図を見てもらうと分かるのだけど、東西に走る線と南北に走る線をクロスする駅が二つあります。西に大阪、東に名古屋、北に京都、中央部に奈良市があるので、東西を走る路線の方が重要だと思うけど、南北は繋いておいて悪い話ではないでしょ。北の難波線・奈良線と南の大阪線を、南北でつなげる役割を果たすのが橿原線。重要なのは北部の京都線ですけれども。
東西の線と南北の線がクロスする駅の、北側の駅が大和西大寺駅。南側の駅が大和八木駅。
私も近鉄奈良駅から大和西大寺駅で乗り換えて南下し、大和八木駅で東側に向かいました。
ということから見ても分かる通り、橿原市の八木あたりは交通の要所でもあります。
ニーズが全くないところに駅を作りにくいよなあと思えば、近くに今井町というニーズがあったんだろうなあと。
今井町そのものに国鉄も近鉄も通さなかったおかげで、開発されたのは八木側という幸運で、今井町はマルっと江戸時代の建物が残ってるのよ。じつに運の良い巡り合わせ。そして、維持した方々の先見の明という感じ。