明日香村:乙巳の変の舞台、飛鳥宮 [2020年10月 Go To 奈良] | 姉御の一人旅ガイド
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明日香村:乙巳の変の舞台、飛鳥宮 [2020年10月 Go To 奈良]

観光業界を守るために、国内旅行をしましょうと言われても逡巡してしまう体力の持ち主ですが、ここまで安くなると行っちゃう。⇒愛用してるJALダイナミックパッケージは航空券+ホテルの組み合わせ。

旅行する場合には、自分が無症状感染者であるという前提で行動するべきかな。撒き散らさない・感染しないようにする努力を続けて自分を、そして誰かを守りましょ。

こちらもどうぞ⇒コロナの時代の、持ち物リスト

今日の最後は石舞台かと思ったけれど、なんとか時間があるぞー。

ということで、この日最後は飛鳥宮です。

明日香村を周遊する「かめバス」は田舎のわりには本数が多いのですが、それでも、秋の15時はヤバい気配が漂い始め、もう16時前ですから。バスかつ、混み合わない道だから「かめバス」は予定時間よりもほんのり早い時間に到着して出ていっちゃうことがある。乗り遅れたことはないが、乗るつもりではなかったのに来たから乗ったことはある。土地勘があれば別だけど、土地勘がないから日が暮れると怖い。田舎の暗闇は、都会よりも怖いものよ。

石舞台から降りてバス停を確認し、バス停から何分で到着したか覚えた上で駆け足。

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2018年に、台北で台湾のお茶教室の講義のモニターをさせていただきました。に・ほ・ん・ご・で。
Kkday 【台北大稻埕(ダーダオチェン)】台湾茶文化体験

もちろん、完全にわかるわけではないけれども、今後お茶屋さんで選ぶときに名前を見たらそれなりに味の見当がつきそう。
⇒台北:若き四代目の台湾のお茶教室。日本語で受けられるよ!

——————————引き続き「姉御の一人旅ガイド」をお楽しみください。

田んぼの中

飛鳥板蓋宮遺跡 農村

今は、農村になっているけれど、ここに宮があった。

上の写真からは煙が出てるけど、今回の明日香は稲刈りの時期だったから、結構いろんなところで野焼きされてた。稲刈りをして、干す家もあれば干さない家もあるのかしら。とにかく、最後に残った稲藁を焼くのね。野焼きは法律で規制されているけれど、例外もある。焼いている=違法というわけでもない。焼くと、灰が肥料になる。

それで、喘息持ちの姉さん、たまにコホンコホンと咳き込んでたのも、人がいないのにマスクして歩かざるを得なかったのも事実なんだ。

さて、この「飛鳥宮」という遺跡です。

石碑や看板その他「伝飛鳥板蓋宮遺跡」になってることも多い。

これがそうだし。

飛鳥板蓋宮遺跡 立て看板

こっちもそう。

飛鳥板蓋宮遺跡 碑

近年の学説では、重層的に宮が置かれたのではないかということになっているようです。

名称も「伝飛鳥板蓋宮遺跡」から「飛鳥宮遺跡」になってます。考古学系は新しい発見、新しい分析によって通説がくるくる変わるからね。

飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡) | 明日香村観光ポータルサイト | 旅する明日香ネット
飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)。明日香村で開催される情報をお届けします。 今日開催されているイベントはもちろん、週末の「どこ行こう」に役立つ情報が満載! 定番イベントから季節の旬なおでかけ情報。。

私が手元に持っている「日本書紀」は、中公文庫版(Kindle)ですが、飛鳥板蓋宮と飛鳥浄御原宮は別の場所ということになってるもの。

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復元遺構としては、飛鳥浄御原宮、つまり天武・持統夫妻の時代のものです。これが大井戸かな。

飛鳥板蓋宮遺跡 潔御原

ここ中心に、いろいろな役所があったわけではないのだろうね。なので、このエリアは天皇の住んだ「宮」と思えばいいのかな、というのが私の理解です。

平安京や平城京のような、中国の長安をお手本にした計画的な都市は、お隣橿原市にあった藤原京を待つ必要があります。藤原宮までいくと思うんだけど、あっちは平なのよ。太古は湖だったのだといわれると、そんな感じがする奈良ですが、飛鳥はより陸側。藤原は底側だったのか。

都城を展開していくには、飛鳥は狭い。

「宮」といってもね、例えばの話、オーストリアのシェーンブルン宮殿のような、ドーンと建物があるわけではないと思うんだよ。⇒シェーンブルン宮殿

例えば、奈良の長屋王の邸宅跡はちっちゃな模型が作ってあってね。平城宮跡の資料室だったかな、いざない館だったかな、にあった。⇒平城宮跡

おそらく、平城京と飛鳥の時代は、建物のスタイルが違うだろうけれど、やっぱり一つの建物で成立するわけではないんだと思うんだ。あまり大きくない建物が複数建ってただろうと思うの。都城を展開するには狭すぎるとはいえ、これだけの広さがあれば、複数の建物は建てられるよね。

時代の順番としては、こうなるのかな。

  • 飛鳥岡本宮(舒明天皇)
  • 飛鳥板蓋宮(皇極天皇)
  • 後飛鳥岡本宮(斉明天皇=皇極天皇重祚)
  • 飛鳥浄御原宮(天武・持統天皇)

こう書けば、ははん、あのご一家のおうちだったわけだね、と。

飛鳥宮跡|奈良県観光[公式サイト] あをによし なら旅ネット|明日香村|山の辺・飛鳥・橿原・宇陀エリア|歴史・文化|観光
板蓋宮は、7世紀半ばの皇極天皇の宮殿で、中大兄皇子(天智天皇)らによって蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変(大化の改新)の舞台。皇極天皇、斉明天皇(皇極天皇重祚)の皇居跡で、伝飛鳥板蓋宮跡とされていたが、継続的な調査で、飛鳥板蓋宮だけでなく、飛鳥岡本宮(舒明天皇)や、後飛鳥岡本宮(斉明天皇)、飛鳥浄御原宮(天武・持統両天皇)...

あのご一家のおうち

関係と宮を、「日本書紀」に沿って詳しく書きます。

推古天皇没後、推古天皇にも皇子がいたし、太子だった厩戸皇子にも息子がいたのだけど、即位したのは推古天皇の夫・敏達天皇の孫の舒明天皇(推古天皇の血を引かない)だった。この人の宮が、飛鳥岡本宮

この舒明天皇、推古天皇だの天智天皇だのみたいに有名じゃないんだけど、キーパーソンなんですよ。

だって、舒明天皇没後に即位するのが、舒明天皇の皇后なんだもの。この人こそ皇極天皇。天智天皇・天武天皇兄弟のお母さんですよ。つまり、皇極天皇は自分の夫の宮(正妃なら同居してたのかな)の敷地内に宮を新造したのかな。舒明天皇没後に皇極天皇は小墾田(もしくは、東宮の南の庭のかりの宮殿)に入った。その後に「飛鳥板蓋宮」に移ります。

小墾田が、推古天皇の小墾田宮のことだったら、雷丘東方遺跡と考えられてるのね。ただし「墾田」という単語そのものは開墾地という意味なので、全然違うところかも。

この皇極天皇時代に乙巳の変。蘇我入鹿が皇極天皇の子・中大兄皇子らに殺害される(一種の)クーデターが発生する。つまり、蘇我入鹿殺害現場がこの「飛鳥板蓋宮」よ🙏。⇒飛鳥寺・蘇我入鹿の首塚

入鹿が「私になんの罪があるのか」という、あそこ。その現場から立ち去る皇極天皇とか。その場にいた中大兄皇子の異母兄の古人大兄皇子が自宅に戻って「韓人が入鹿を殺した」って閉じこもるあのシーンは日本書紀の中で最も臨場感のあるシーンでしょうかね。私は古人大兄皇子と一緒にブルブルしちゃうのよ。

皇極天皇は乙巳の変の直後に退位するけれど、クーデターの主犯・中大兄皇子が即位するわけではなく、皇極天皇の弟が即位して孝徳天皇。中大兄皇子は、自分は太子になる。(ここまで巻24)

さて古人大兄皇子の話もつけておくならば、元々孝徳天皇は「古人大兄がいいのでは?」と固辞してたんです。やっべ、と思ったか思わなかったか、古人大兄皇子は飛鳥寺で出家して吉野に行ってフェードアウト、できず。謀反を企てたと密告され、中大兄皇子によって討伐されてお亡くなりになります🙏。

孝徳天皇といえば難波宮(=大阪市)。この飛鳥の地を離れるけれど、政権を動かしていたのはやっぱり中大兄皇子なわけですよ。天皇と太子が政治的に決別してしまい、太子が皇極上皇(自分の母親)に間人皇后(中大兄皇子・大海人皇子の姉妹)も連れて飛鳥に戻っちゃう。戻った先の宮は河辺行宮なので、この岡本の地かはわかんないけれど、岡本だって飛鳥川から離れてないわけじゃないし、そもそも飛鳥川は、流れをよく変える川で、「常ならぬ世」の歌枕だからね。

さて、孝徳天皇は病死🙏するみたいだけど、本当に病死かよ、殺してないよな?と中大兄皇子に聞きたくならない?一度入鹿をやってるもん、この人。入鹿の次に古人大兄もやったよね(ここまで巻25)。

孝徳天皇の没後、普通は太子・中大兄皇子が即位しそうなところだけど、中大兄皇子は自分の母親(皇極上皇)を再度引っ張り出して、この人が斉明天皇。中大兄皇子本人は太子のままです。譲位したのも初めてなら、重祚したのも初めてという、異例づくしのお人です。

さて、この斉明天皇は、元の板蓋宮にて即位します。小墾田に瓦葺の宮を新たに作ろうとして断念。板蓋宮が出火して、飛鳥川原宮へ。そして岡本の地に宮を作って後飛鳥岡本宮。ここも火事の記録があります。斉明天皇時代に、吉野宮を作ったりいろいろ石造建築物を建設したり西征したりしていたというわけ。斉明天皇一行は博多湾に入り、磐瀬行宮に入ります。朝倉宮を建設し、朝倉宮で斉明天皇没。中大兄皇子本人も飛鳥に戻ったかは知らないけれど、斉明天皇の亡骸は九州から飛鳥に戻っています。(ここまで巻26)

斉明天皇没後、中大兄皇子はすぐに即位はしない。この人めっちゃくちゃ忙しいんですよ、この頃。喪服をつけて即位せずに政務を取った。いた場所は長津宮。電話すらない時代ですから、飛鳥なわけはない。福岡です。白村江の戦いに負けるし、水城を建設したり西海防衛したりしないとならないもん。斉明天皇のみならず、中大兄の姉妹の間人も、中大兄の娘の大田(大海人の妃。この人に関しては、巻26に大伯というところで女の子を産んだ記録がある)も九州の地で死んだ。近江に遷都してようやく即位して天智天皇。(ここまで巻27)

話はすっ飛ばすけれど、壬申の乱で大海人皇子が、天智天皇の息子の大友皇子を滅ぼす🙏。飛鳥に入ってからの大海人皇子はまず嶋宮に入り、ついで岡本宮に入る。岡本宮の南に飛鳥浄御原宮を作った。(ここまで巻28)

そして大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位して天武天皇。(ここまで巻29)

岡本宮と浄御原宮が違う場所だと考えられたのも無理はないのかなと思いました。記述の意味は、岡本宮のエリア内もしくは本体の南に浄御原宮を建設したという意味だったのかも。「嶋宮」はどこでしょうね。「嶋」ときくと、邸宅に島のある庭園を持っていた蘇我馬子は嶋大臣と呼ばれたというし。今も「島庄」という地名が石舞台の近くにあるのよ。ここではなかろうかということになってる模様。

島庄遺跡(第18次)調査|島庄遺跡情報 |調査報告等 |発掘情報

日本書紀の巻28はほぼ壬申の乱の話です。大海人はそれくらいの大規模な乱の後に即位するので、なんらかの権威づけが必要だったのかしらと想像するのね。そうすると「母の宮」って有効な権威づけにならないかしら?兄の天智天皇だって、孝徳天皇没後に自分の母親を引っ張り出しましたから。

天武天皇没後、天武天皇の皇后(天智天皇の娘)が即位して持統天皇。

飛鳥板蓋宮遺跡

だから、最後の持統天皇からみれば、夫の宮があり、父方の爺さんも婆さんもここに宮を持っていたわけです。まさしく、あのご一家の。ってなるわけですよ。

血塗れな上に近親相姦の繰り返しでドン引きするけど、それは時代が時代だから仕方がない。

日本書紀は、前半の神さまのお話よりも、完成したと思われる元正天皇(奈良時代。持統天皇の孫)の人から見た、ご親戚の話の方が面白いのよ。

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その後、持統天皇は、飛鳥を出て藤原京を建設します。そして二度と飛鳥の地に都を置くことはなかった。上にも書いたけど、藤原京の周辺の方が、飛鳥よりも広いんだもん。⇒藤原京

でも、藤原京と飛鳥は私が徒歩で歩けたような距離です。天武天皇時代に建設の始まった薬師寺や、大官大寺が藤原京でも重要な寺とされたのよ。だから、天武と持統の間では、律令制の元での新しい社会制度は、新しい都にあるべし、なんてことにもなったのかも。

私は「岡戎前」のバス停から橿原神宮前駅に行きました。遠くないところに「飛鳥京跡苑池遺跡」があって、立ち寄らなかったのだけど、私の奈良滞在中にこの庭園の全容がほぼ解明された、という報道があったのよ。ひょっとして今後整備なさるのかも。

飛鳥宮 ~国のはじまり~ 《明日香村》

これが解説かな。

https://asukamura.jp/youtube/asukakyuseki.pdf 

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