明日香:岡寺は草壁皇子の縁なのか [2020年10月 Go To奈良] | 姉御の一人旅ガイド
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明日香:岡寺は草壁皇子の縁なのか [2020年10月 Go To奈良]

観光業界を守るために、国内旅行をしましょうと言われても逡巡してしまう体力の持ち主ですが、ここまで安くなると行っちゃう。⇒愛用してるJALダイナミックパッケージは航空券+ホテルの組み合わせ。旅行する場合には、自分が無症状感染者であるという前提で行動するべきかな。撒き散らさない・感染しないようにする努力を続けて自分を、そして誰かを守りましょ。

こちらもどうぞ⇒新しい時代の、持ち物リスト

近鉄大和八木駅から吉野・飛鳥を目指すならば、橿原神宮前駅で近鉄南大阪・吉野線に接続します。橿原神宮前駅・岡寺駅・飛鳥駅・壺阪山駅。これがいわばGreater Asukaとも言うべきエリアです。橿原神宮前駅からは藤原宮は遠くないし、豊浦駐車場のバス停からまっすぐだもんね。壺阪山駅は、キトラ古墳の最寄駅です。⇒キトラ古墳

さて、今回のGo To奈良は、Go To飛鳥なので、お寺は主に古刹中の古刹に分類していいようなお寺(ただしそのままで残っていることは滅多にない)に行っていますが、岡寺もその一つです。

これねえ。「岡寺駅」からかなり離れてるので要注意。私、飛鳥の岡寺と岡寺駅(橿原市)が結びつかなかったもん。

 

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——————————引き続き「姉御の一人旅ガイド」をお楽しみください。

「岡」とはなんだろうか。

「岡」と聞けば、真っ先に思い出されるのが「飛鳥岡本宮」。

持統天皇のご一家は、「飛鳥岡本宮」から「飛鳥浄御原宮」までずっと(ほぼ)同じエリアに宮を構えていたということがわかってるのね。⇒飛鳥宮跡

飛鳥板蓋宮遺跡

近鉄線から見ると、甘樫丘ともう一つ山(というか、丘)に挟まれたエリアです。

この周辺が、多分今の明日香村で最も住宅密集地の「岡」です。(というか、江戸時代くらいの商家かな、という感じの建物もあったよ)

その平地にある「岡」だけど、何を指しているのかというと、甘樫丘の奥にある「岡」ではなかろうかと。

これこそ、「岡寺」の「岡」なんだろうなあ。そのふもとだから「岡本」。と私は認識いたしました。

岡寺

一種の山寺でして、運動不足&心肺機能が落ちている私には、山門までくるのにヘロヘロになりました。

岡寺

この写真、右側に何重かの塔が見えたので、先にそっちに行く。長谷寺で失敗したからさ。

あったのは、かわいらしい三重塔でした。

岡寺 三重塔

これ、昭和59年です。姉さんと同年代です。ああ、バブルの狂乱前夜。豊かだったんだよなあ、日本が。

ここからの眺めがこう。まず、仁王門。

岡寺 上から

いくら古くても江戸時代かな。

本堂側

岡寺 歩く

神社から持ってきた建物があったりするけれど、基本いずれも江戸時代以降の建物だなという感じで、「飛鳥」な雰囲気はありません。私の頭が「日本書記」に占領されているのをご存じな皆さん、さぞ姉さんがっかりしただろう思ったかもしれないが、江戸時代から残っているお寺さんは多くはありませんよ。廃仏毀釈・第二次大戦で失われたお寺さんはそれこそ山のようにあるんだから。

ほんっと、ヨレヨレでしたわよ。高台から、「外」を見てみよう。姉さんがヨレヨレになってるのがわかってもらえるとうれしい。

岡寺 三重塔から

高さとしては大したもんじゃないんですが、結構な角度でございましたのよ。頑張ったねえ、私。真ん中よりも左側にこんもりしてるのが、甘樫丘だと思うんだけどな。

これ、甘樫丘にあった図です。

甘樫丘 地図

甘樫丘と岡寺の山の間に飛鳥宮があった。

本堂の方に入りますよ。

岡寺 本殿側

ゴーンと鐘の音がするので、あらもう何時かかしら、と思ったら、誰でもつけた。

というわけで私もひとつき。

岡寺 鐘

確かその前にアルコール消毒できるようになってたし、あとはウェットティッシュで手をふきふきふきふき。

深まる謎

岡寺 天智天皇

各お寺に伝わる記録って、当時の人が書き記したものもあれば、そうではなくてフィクションだったりするので鵜呑みにはしてはいけないんだね。

発掘されたものなどと、伝わる記録が一致すればいいんだけど、ここの場合は結構???ってなっちゃうのよ。

この寺の謎を追いかけ、探検隊はAmazonの森ことKindle版「日本書記」に向かった。

以下では、便宜上西暦を使います。

白鳳時代の天智天皇

まずは、白鳳時代の天智天皇??ってとこですね。

年号として「白鳳」が正式に使われたことはないんです。なので、令和の次に白鳳が来たって構わんのですよ。私が中学生だった頃には、白鳳文化とは天武・持統の時代の美術のことだったけれど、「白鳳時代」の定義を最も広く取ると乙巳の変から始まる大化改新から藤原京遷都までらしいんで。クーデター実行犯中大兄皇子が即位後の天智天皇を含めてもいいんでしょう。

白鳳時代とは - コトバンク
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 - 白鳳時代の用語解説 - 文化史上の時代区分。狭義では天武~持統朝 (673~697) から平城京遷都 (710) までの約 40年間をいい,広義には大化改新 (645) から平城京遷都までの約 60年間で,飛鳥時代と奈良時代との中間をさし,壬申の乱 (672) を境に前期,後期...

そしてここに書かれている「天智天皇」とはなんだろうか。後の世の、作話であろうか、それとも何かとごちゃまぜになっているのであろうか。

草壁皇子・大津皇子と義淵

岡寺の創建は寺伝によると

「およそ1300年前、天智天皇の勅願によって義淵僧正が建立されました。」

天智天皇は観音様の申し子だとしてこの子供を引き取られ、岡宮で草壁皇子(662~689)とともに育てられました。この子供こそ後の義淵僧正その人である。というのが出生の伝説です。」

「義淵僧正は草壁皇子とともに育ったと言われる岡宮の地を与えられ、龍蓋寺を建立されました。」

「大宝3年(703)には日本で初めて『僧正』の位になり、以後神亀5年(728)の入滅に至るまでの25年にわたり同職に就き、日本仏教界を牽引されました。」

岡寺の歴史|日本最初やくよけ霊場・西国第七番 岡寺
日本最初やくよけ霊場 西国第七番札所 岡寺 公式ホームページ 日本最大の塑造 重要文化財 本尊 如意輪観音座像

これが本当にめちゃくちゃ謎。

義淵が天智天皇に引き取られたというのは、「扶桑略記第五」にあります。扶桑略記は平安時代、それも堀河天皇ごろのものなのでこの時代から300年くらいくだります。なんなら、令和の時代の我々が、徳川15代の将軍たちの逸話を集めて書くような感じ?

姉さん。実は扶桑略記まで手を伸ばした。が、現代語訳じゃないのでね。

いくよ。大宝3年は、2月に太政天皇(持統)の七七日(四十九日)を行って、直後3月です。興福寺の僧侶義淵を僧正にした記録がある。時の天皇は文武天皇です。

三月乙酉廿四日。以興福寺僧義淵任僧正。大和國高市郡人。俗姓阿刀氏。其父母依無子息。多年祈請觀音。然間。夜聞小兒啼音。奇出見之。柴垣之上。有裹白帖。香氣普滿。歡以取養。不日長大。天智天皇傳聞。相共皇子。令養岡本宮。至是。任僧正。造寺。号龍盖寺。俗云。造五箇寵寺。龍円。龍福(文字化け)。

扶桑略記 上代古典集∥埋もれ木
扶桑略記 上代古典集。田中孝顕の古典研究...

ここには「皇子と一緒に岡本宮で育てた」としか書かれていません。

もう一つの謎は平城京遷都前に出てくる「興福寺」なんだけど、前身の厩坂寺のことなら飲み込めなくはないかな。

さて、今回Go To奈良で、何度も何度も文武天皇に草壁皇子の名前は出るので、ずっと読んでくださる方はそろそろ覚えてくれたんじゃないかと思うんだ。プリーズリピートアフターミー。プリンスクサカベ。パパは天武天皇。ママは持統天皇。ワイフは元明天皇。サンは文武天皇。ドーターは元正天皇。ご本人だけが即位前に死んじゃった。

草壁皇子は別名「岡宮天皇」です。即位してないけど、没後息子が即位した人には「天皇」って贈ることがあるから、別に変な話ではない。で、ここにじゃじゃじゃじゃーん。「岡」が出てきた。

草壁皇子は、天智天皇(中大兄皇子時代でもいい)に、飛鳥の地で育てられている可能性はあるか

大海人皇子(のちの天武天皇)は、兄の娘たちを娶り、その一人が後の持統なのね。だから、草壁皇子は天武天皇の息子であり、同時に天智天皇の孫でもあったわけで。

草壁の幼少時に、持統が父と同居していたかどうかは別としても、父の邸宅の中に住んでいた可能性はある。ここは否定しない。

さて、ちょっと考えてみよう。この激動の時代のことを。

草壁皇子の出生記録を日本書紀で探しますと、662年。母親が我らが持統ちゃん(=鸕野讃良)だから、日本書紀の持統天皇の巻のしょっぱなに出産記録があるのよ。草壁皇子は「大津宮」で出産したって。ここは那大津のこと。博多だよ。今でも那の津ってあるもん。

つぎ。この頃の中大兄皇子の移動を追いかけると、斉明天皇の巻で斉明天皇が661年の7月に亡くなり一度太子(中大兄皇子)は10月7日に帰路について海路を進んで難波につき、母を埋葬します。天智天皇の巻では、斉明天皇没後に中大兄皇子の称制(=即位せずに天皇としての政務を行う)がなされたというのね。彼は10月に飛鳥に戻って母を埋葬して、どうも比較的すぐ九州に戻ってる。そして662年に草壁が出生。白村江の戦いは663年です。赤子の草壁の移動が母の移動に伴うとすると、母は自分の父に従ったか、夫に従ったか。いずれにせよ、この西に出かけた一族を支配したのは中大兄皇子ですわね。

中大兄皇子の移動をさらに追いかけると、日本書記の記述は白村江の後に西方防衛の話。一族の話になると、665年には姉妹の間人が亡くなった話が挿入されるけれどずっと西方防衛の話をしてます。665年10月に宇治で大規模な閲兵を行っていると書かれているけれど、主語は中大兄皇子と見るべきでしょう。ここでようやく中大兄皇子が関西に戻ってる。多分、忙しいからママの使った後岡本宮を政務の拠点にしてると思えば、飛鳥に一族がまるっと戻ってきてて変ではない。

667年に近江に遷都し、668年に即位。

草壁が662年生まれなので、「飛鳥」にいた665年から667年に、鸕野讃良が自分の父親の邸宅の一角に住んでいたならば、草壁が中大兄皇子の邸宅で育っていてもおかしくないですね。

飛鳥にいた頃、あの人は「天皇」ではなく「太子の中大兄皇子」だった。しかし後に天皇になったので「天智天皇に育てられた」が成立しない話ではない。

もう一人の天武の子にして天智の孫

実は、もう一人天武の子であり同時に天智の孫にあたる「皇子」がいるのよ。大津皇子。母は鸕野讃良の同母姉の大田です。天武天皇の巻(下)には、(即位後に)「正妃を皇后にお立てになった。皇后は草壁皇子を近江になった。天皇はこれよりさき、皇后の姉の大田皇女を妃とされた。」とあって、元々の大海人の正妃は大田で、大田の没後に鸕野讃良を正妃にしたと踏むべきかなと。

姉の大伯の出生記録は、なんと斉明天皇の巻にあります。西へ移動中、岡山の港で生まれたんですって。これが661年。662年に父方では異母兄弟、母方では従兄弟にあたる草壁が那の津で生まれます。大津皇子の出生記録は見つけられなかったけれど、天武天皇が亡くなった直後の持統天皇の巻に死亡記録はあるわけ。「時に年24」。天武天皇の没年が686年です。遡って(多分数えでこのとき大津は24歳。満23歳と踏めば、)多分大津皇子の出生年は663年。

665年に飛鳥に戻った中大兄皇子一家ですが、娘の大田が生んだ大伯(大来)(661年生まれ)と大津(663年生まれ)はどこにいるんでしょうね。

実は667年の近江遷都の直前に大田の埋葬記録がありまして(斉明天皇と間人を合葬し、その墓の前に大田を埋葬した)、大田は近江には行ってないのね。

もう一つ、中大兄皇子・大海人皇子からみれば姉妹だった間人が亡くなった記録は665年。春に間人が亡くなり、同年の冬に中大兄皇子が宇治で閲兵を行っています。

667年の近江への遷都の前の月に大田の埋葬記録があるので、667年のこのときに亡くなったというよりも、その前年くらいに大田が亡くなっているのかなあと。

661年に母の斉明天皇が亡くなり、飛鳥に満足できる墓を作れなかった。665年には姉妹の間人も死んだ。次いで娘の大田が死んだ。三人の墓を作ってから遷都。という感じじゃないかなあ。お引っ越し前に全部始末をつける感じ。

残された大田の子供たちは母の同母妹の持統のところにいるのか、それとも父(大海人=天武)のところにいるのか。

ヒントが「日本書紀」にあると思うの。これは持統天皇の巻です。この巻は、皇后称制の次に大津皇子の謀反がくるのだけど、そこに「皇子大津は天渟中原瀛真人天皇の第三子である。(形容略)で、天命開別天皇に愛された。」と書いてあるんですよ。天渟中原瀛真人天皇が天武。天命開別天皇が天智。だから、「天武の子にして、天智に愛された」の二つ目は「天武」を「天智」に書き間違えたという話ではない。「日本書記」は大津は天智に愛されたと書いてるんです。大田の遺児二人は、父親でも母の同母妹でもなく、母方の祖父に引き取られていると思うんだ。

大津皇子は近江では即位後の天智天皇のところにいたんじゃないかないかなあ。下手したら、子供のいない倭姫(中大兄皇子の正妻)の、養子格じゃない?「扶桑略記」の皇子は誰と書いてないのだけど、大津もまた候補にあげていいと思う。

実際に天智天皇没後におきた壬申の乱では、草壁は父母の挙兵の段階で一緒にいます。多分吉野にもいたんでしょう。でも、大津は後から(近江から人を連れて)参加します。9歳・10歳くらいなんだけどね。

近江では、多分草壁は父母と同居。大津たちは天智天皇に養われているんだと思うの。姉の子とはいえ、鸕野讃良のところで育ててないと考えれば、天武即位後に、大伯が伊勢の斎宮として飛鳥を離れさせられるのも、天武没後に皇后(鸕野讃良)がすぐに大津を殺してるのも納得。皇后に大津を売ったのが天智の子で大津とは親友だった川島皇子だったという説が「懐風藻」にあるよ。こっちは奈良時代の作品なので「扶桑略記」よりは近い時代の人です。そっちまで手を広げると話がめちゃくちゃになるからパスするよ。大津と6歳年長の川島が親友なのも、大津が天智天皇に育てられているなら、あり得なくないかなあ。年上で遊んでくれる「川島にいちゃん」だよ。(それに裏切られたのか、大津。泣ける)

懐風藻 上代古典集∥埋もれ木
懐風藻 上代古典集。田中孝顕の古典研究サ...

問題は近江に移る前の飛鳥で、大田が九州で亡くなって遷都前に改めて埋葬したか、一日が飛鳥に戻って比較的すぐに亡くなって改めて埋葬されたのなら、大津たちが飛鳥で中大兄皇子に養われてても変じゃないじゃないですか。

そもそも、母親の大田は中大兄皇子の娘なので、大津たちは中大兄皇子に養われていたかもしれないし。

ただ、大海人の元々の正妃が鸕野讃良の姉の大田だったと思われるので、飛鳥では大津たちが父親のもとにいて、草壁が母と一緒に母方の祖父のところにいても変じゃないんだよね。(だとすると近江で草壁と大津たちが入れ替わるような形になる)

天智の皇子たちの生年を出しておく

天智の皇子は、大友・川島・志貴。義淵が一緒に育てられたのは彼らの可能性がないわけではない。面倒だからWiki情報ですが、大友は648年生まれ、川島は657年生まれ、志貴は不明だが没年は716年。ということで、大友・川島を候補にあげてみよう。

中大兄皇子は、653年に難波京から飛鳥に戻り、661年に西征で飛鳥を離れているので、義淵を拾ったのが西征の前なら「岡本宮で一緒に育てた」のが大友、もしくは幼児だろう川島でもあまり変ではない。

ただ、問題があって、当時の婚姻スタイルですよ。正妻の生んだ子は同居してても、側室の産んだ子は母と共に母方の祖父の家にいる可能性がある。そうすると、中大兄皇子の正妃は倭姫で子どもを産んでいない(産んでも育っていない)のでねえ。倭姫は子どもがいないので、大友や川島を引き取って手元に置いてたかな??

義淵が僧正になったのが40前後と推測して、生年を探ってみる。

さあ、ここから義淵です。「皇子と一緒に育てられる」ということは、「皇子」と5歳も変わって欲しくない。

というのもこの時代、例えば、672年に壬申の乱があるのですが20歳前後と思われる高市皇子のみならず、大津皇子の活躍の記録がある。幼帝・少帝は望まれなかったけれど、10歳くらいの子どもに要求されたものって結構大きいんじゃないかなと思う。(そのときに1つ歳上の草壁は父母と一緒にいたけれど。)だから、「一緒に育てられた」というなら5歳も変わって欲しくなくないです?

義淵とは - コトバンク
デジタル大辞泉 - 義淵の用語解説 - [?~728]奈良初期の法相(ほっそう)宗の僧。大和の人。元興寺(がんごうじ)の智鳳に唯識を学び、岡寺(竜蓋寺(りゅうがいじ))を開いた。門下に玄昉(げんぼう)・行基(ぎょうき)らがいる。

義淵の出生年は不明。中大兄皇子は665年から667年に飛鳥にいるので、いくら若くても667年(近江遷都)よりも若いと「飛鳥の地で一緒に育てる」はない。

さて、上にあげたように義淵は大宝3年(=703年)に僧正になってるらしいじゃないですか。728年没。亡くなったときにはすでに奈良時代になってますね。僧正になるのが40前なら、728年に60前後で亡くなっても、「何かを成した人」の人生として変じゃないでしょ。ということは、遡って663年前後に出生していておかしくない。

おっ!草壁は662年生まれです。大津も663年生まれです。義淵は草壁・大津とほぼ同い年でおかしくないじゃないですか。(私ここでゾクゾクしたもん)

665年に中大兄皇子が飛鳥に戻って、「観音様の申し子」の噂を聞いて引き取り、どちらか(もしくはどちらともと)一緒に育てられたとして年齢的に別におかしくないと思うんですよ。

師匠と弟子から義淵の生年を考えてみる

義淵663年前後に出生する話が成立しうるか別の角度から考えてみますね。

師匠と弟子の年齢からいこう。「義淵は智鳳の弟子、行基の師匠」。

じゃあ、師匠らしい智鳳から。

智鳳とは - コトバンク
デジタル版 日本人名大辞典+Plus - 智鳳の用語解説 - ?-? 新羅(しらぎ)(朝鮮)の僧。飛鳥(あすか)時代に来日。大宝3年(703)智鸞(ちらん),智雄とともに唐(とう)(中国)にわたり,智周にまなぶ。帰国後,大和(奈良県)飛鳥寺(法興寺・元興寺)で法相(ほっそう)・唯識(ゆいしき)をひろめた。慶雲3年維摩....

あれ?大宝3年=703年に唐で学び、慶雲3年706年に維摩会講師。

空海が30歳くらいで入唐しているので、遣唐使の団の中では下っぱの僧だったとする。空海がアメリカに留学して博士号をとって帰ってきたような人とすると、智鳳は准教授くらいがサバティカルで教授になる前に箔をつけるためにアメリカ留学するような人っぽいじゃないですか。3年以内に帰ってるようですもん。なので、智鳳が40前に唐で学んだとすると、703年に唐に渡るので、663年生まれ?あれ?義淵と年齢が変わらなくない?つまり、義淵は年齢の近いお師匠さんを持ったということ?

智鳳から推定していくと、義淵は660年代よりも早くに生まれる可能性は低いんじゃないかな。

よし、義淵の弟子としての行基。行基といえば聖武天皇よね。行基は生年没年が残っているようで、668年生まれ。749年没。この人は長生きでした。なのでねえ。義淵が670年よりも後に生まれている可能性はないと思うんだ。年齢が近そうですね、この三人。

行基 | 奈良偉人伝 | 奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」
奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」は、「出会う」「楽しむ」「深める」「活かす」の視点で奈良県の歴史文化資源をご紹介する歴史満喫サイトです。このページは行基について紹介しています。

別の大学の年齢の近い大学院生たちが、「あなたのこの研究は素晴らしい。師匠と呼ばせてください」的な感じ?

特に留学帰りの智鳳が師匠格。次兄が天才義淵、末弟に地べたを這いずり回るように救済を試みた行基がいる感じ?三人が桃園で誓い合った「ションディー(兄弟)」かどうかは知らない。(話が別の方向に)

天智天皇の勅願はありうるか。持統天皇か文武天皇ではなく?

天智天皇の没年は672年です。即位後割にすぐに死んじゃった。

672年に草壁皇子は10歳です。大津皇子は9歳。多分、義淵もそれくらいの年齢なんでしょう。日本書記の天武天皇の巻は上下に分かれてて、上巻はほぼ壬申の乱です。草壁皇子は壬申の乱の当初から父母に従っています。義淵がどこにいるかはわからない。

いずれにせよ、義淵が創建したならば、天智天皇の勅願は難しくないかなあ。

天武の太子・草壁皇子

じゃあ、誰の勅願ならありうるのか。持統天皇か文武天皇ではないかと思うんだ。

673年飛鳥浄御原宮にて、天武天皇の即位。ここからこのご一家は飛鳥にいる。

681年草壁皇子の立太子。「岡宮天皇」と号されたのもあり、この頃には「岡宮」にいたかもしれない。ずっとあのご一家は同じエリアに宮を置いたじゃないですか。近いですし。じゃあ、「岡宮」って何?「扶桑略記」は「岡本宮」って書いてるのよ。どう違うの?

実は、岡寺に行く途中、「岡本寺」の子安観音があります。

岡本寺 子安観音
岡本寺

天智天皇の「岡本宮」。ふむ。

実は、元々の「岡寺」の合ったと思われる場所は、今の寺の場所ではなく、仁王門から見える治田神社です。

 

岡本寺まで治田神社から行けるかわからないよ。「治田神社」も「岡本寺」の本堂の方には行けてないのよ。で、この治田神社こそ、創建時の「岡寺」の場所と考えられている。

次の話。姉さんの妄想ですよ。治田神社は、飛鳥宮跡から見ると東側にあります。ひょっとすると「岡宮」というのは、斉明天皇の太子だった中大兄皇子が使い、壬申の乱後に天武天皇の太子だった草壁皇子が使った、「東宮」だったのかもしれないじゃない??「後飛鳥岡本宮」を使っている頃(斉明天皇時代・中大兄皇子時代)なら、別の名称だったかもしれないけれど。「飛鳥浄御原宮」になった時代(天武・持統時代)には、この山手を「岡宮」「岡本宮」と呼んだかも。

つまり、中大兄皇子が太子称制時代に「岡」を自分のものにしていて、家族に住まわせていた可能性が一つ。その家族の中に、母親と一緒もしくは母親のいない大津がいるかもしれないし、母親と一緒に草壁が入っているかもしれない。草壁・大津・大友・川島(に志貴)がみんないるかもしれないし。

その次。仮に中大兄皇子時代の天智天皇と草壁が同居していなくても、壬申の乱後に中大兄皇子時代の「岡」と同じエリアを、天武の太子の草壁が使っていた可能性。

三つ目。太子称制時代の中大兄皇子が義淵を拾って「岡本宮」(飛鳥宮跡の、ね)で皇子たちと育てた。で、後に草壁が自分のエリアにしていた治田神社のあるあたりに、後に義淵が寺を建てた。

いいですか、妄想ですからね。日本書紀には草壁皇子の屋敷として、「嶋宮」が出てきます。

島庄遺跡(第18次)調査|島庄遺跡情報 |調査報告等 |発掘情報

「龍蓋寺」

あら、池の写真はなかった。この「岡寺」の正式な名称は、龍蓋寺。小ちゃい池が作ってあります。

飛鳥の地に悪い龍がいて、それを義淵が池に封じたという伝説付きです。その龍は大津皇子というパターンも、草壁皇子というパターンもあるらしく。

大津・草壁のなくなった頃を考えますかね。686年9月天武天皇崩御。同年10月大津皇子は処刑。大津皇子は24。草壁は即位しないままに689年没。27歳でした。

私は義淵も草壁・大津と年齢差があまりないと推測してるわけ。686年に20代でこの年でお寺を、というのは早くないかなあ。

やはりこの寺が建てられたのは大宝3年(=703年)に僧正になった前後ではなかろうかと思うんです。

ならば、天皇の勅令があったとするなら、それは草壁の子の文武天皇か。それとも、草壁の母の持統天皇か。と思うのが自然じゃないです?

藤原京に遷都して、彼らは二度と飛鳥に都をおかない。で、この岡には使わない建物や土地があったんじゃないかと思うの。それを使わせてやったのかな、って。義淵を拾ったのが天智天皇としても、一緒に育てたのが草壁なら拾われた義淵の近くにいたのは、持統ではないかなあ。

もちろん義淵と草壁・大津の年齢差が20歳くらいあれば話は変わってきますけれど。

怨霊?

怨霊を鎮めた説を取るならば、もちろん怨霊は大津ですよ。草壁ではなくて、幼年時代の大津が義淵と暮らしたなら、二人のゆかりの地に鎮めるのは、なんかBLっぽくていいな。

でも、大津の怨霊を鎮めるために、というのは私は違うかなーと思ってて。というのも、怨霊信仰って桓武天皇時代以降に強まるのよ。平安時代は激しい政争をしても命はとらない(が、菅原道真のように流刑地で死んじゃうことはある)。でも奈良時代までは徹底的に殺していくでしょ。大津の前なら大友皇子。有間皇子も、蘇我倉山田石川麻呂も、古人大兄皇子も、蘇我入鹿も、山背大兄王も。天智天皇の手は血にまみれてましょ。

大津皇子のあとなら、長屋王ですよ、長屋王。そして恵美押勝(藤原仲麻呂)。奈良時代の聖武天皇も孝謙上皇も藤原四兄弟もほんっと政敵には容赦しないからね。正妻、時に子供たちまでまとめてきっちり殺していく。大海人皇子を殺さなくて失敗したのが天智天皇と大友皇子だもん。やるかやられるかだよ、古代の人たちは。

もちろん、飛鳥時代に怨霊信仰の萌芽のようなものがあってもおかしくないんだが。平安時代以降の価値観とはちょっと違うんだと思うんだ。

これ、面白かったです。私は全てに賛成というわけじゃないけど。

https://nara.jr-central.co.jp/event/mini/_pdf/140423.pdf

結論

古刹に伝わる「おはなし」を真に受けたら、Amazonの森こと、Kindle版日本書記(下)で頭が痛くなって、こんな気の狂った記事を書く羽目になったというのが結論です。

元ネタに「扶桑略記」って出てきたら、そこで眉に唾をつけなきゃ。

天智天皇だ、草壁皇子だ、もっともらしい人物が出てくるけれど、フィクションだよ。どこかの時代に「小説家」がいたんじゃないの?そもそもが「龍」を封じた、ですからね。

フィクションだろうよ、といって、それは決して岡寺の価値を低めるものではない。

なぜ岡寺は残ったのか

比較的新しいだろう岡寺がそれなりの規模で残り、大規模でしかも元は岡寺よりも重要視されただろう飛鳥寺・川原寺・山田寺が廃れていった理由は、って考えると面白いんです。

「瀬が淵になる飛鳥川」の氾濫で飛鳥寺・川原寺は比較的被害を受けそうですし。でも高台にある岡寺は土砂崩れはあるだろうけど、浸水することはないと思う。あと、「龍」を封じたってなんかかっこいいじゃないですか。そういう、現世的なご利益がありそうなところが残ったのかなーって。

で「龍」ってなんでしょうね。欧州のドラゴンは火ですが、東アジアでは「龍」は水ですからね。あら?そう、上で言っちゃった。龍って飛鳥川じゃないの?「飛鳥宮」があった時代にはそれなりに治水されていただろうけれど、藤原京遷都以降打ち捨てられた古都で、義淵はちょっとした治水工事をしてませんかね。義淵の歳の近そうな弟子はあの行基だよ。彼らは民を救いたいんじゃない?ヒントが上にあったね。「治田神社」だよ、元々岡寺があったところは。なんか、田んぼを整備したりしてそうな雰囲気がありませんか、山の中なのに。

もう一度だそう。

岡寺 三重塔から

三重塔のところから見てます。治田神社からは少し距離が離れるけれど、多分少し降りて平行移動するだけだよ。

「厄除」って、なんだろね。藤原京遷都以来、ここ明日香は都市ではなく農村なんだと思う。

飛鳥板蓋宮遺跡 農村 

飛鳥宮跡です。

農村だから天候が良いことが望まれてる。雨は降りすぎてもいけない。降らなさすぎてもいけない。田んぼが壊れちゃだめ。ね。龍=水=厄。きれいだなあ。びっくりするなあ(棒)

空海さんは瀬戸内側は雨が降らず、川もあまり大きくない四国でいろんなため池工事をしてるっぽいじゃない。義淵と治水工事の話はそこをもとに姉さんに降ってきた妄想だから、こっちも間に受けちゃダメだけどね。

参考文献でネット上で見られるものは上に挙げましたが、日本書紀はKindleだと検索できるから多少楽だった。

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この記事が楽しかった人は、石清水八幡宮に自分の足で登って思いついた話が楽しいと思う。⇒仁和寺の法師がなぜ石清水八幡宮の本殿まで登らなかったのかを、真面目に考察した

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