今回のテーマはGo To奈良というよりもGo To 飛鳥・白鳳。というわけで、スタートを切るにふさわしい地は元興寺。世界遺産(古都奈良の文化財)の一つです。
実はまだ行ったことがなかった。他にも挙げるならば、大安寺と薬師寺でしょうね。⇒薬師寺
元興寺(がんごうじ)とは
奈良市にある元興寺です。奈良市にあるお寺の多くは奈良時代、すなわち平城京遷都以降のお寺ですね。元興寺もまた、奈良時代のお寺です。
だがしかし。
元は飛鳥の地の飛鳥寺なの。蘇我馬子と物部守屋が仏教の受容に関して争い、勝った馬子が蘇我氏の氏寺を作るんですね。日本最古の本格的な仏教寺院よ。これが元興寺=法興寺=飛鳥寺。そっちもいった。飛鳥寺
日本最初の瓦ぶきの建物だったようで。
元明天皇(ママの方。娘は元正。私は良く間違える)の平城京遷都に伴い、飛鳥の地からお寺もお引っ越し。
正確には飛鳥に京があった時代の中に天智天皇の大津があったり。飛鳥から平城京への間には持統天皇の藤原京が入るけど。飛鳥と藤原京は現代人の中でも虚弱体質・運動不足の私でも歩けちゃう距離です。大津京時代は短いし、藤原京時代も短いのでこのお寺は動かなかったのでしょう。
大量生産・大量消費時代ではないから。瓦を持ってお引っ越し
大量生産・大量消費時代の我々ならば、お引っ越しにあたって古い家を崩す場合に、古い家の材料を持って移動することはほぼない。よっぽどの歴史のある建物ですよね。
しかしながら、飛鳥時代から奈良時代の人たちですもの。当たり前ですが手で作っていく。しかも瓦を作り始めたばかりで大陸から作り方を教わったとはいえ、そんなに効率の良いものではないのでしょう。
以前は薬師寺も藤原の地から持っていったと思われていたようだけど、実は西ノ京の薬師寺は藤原から持っていったわけではないということが判明したんでしたっけ。元明天皇が大伽藍の薬師寺を新造します、さらに藤原不比等が興福寺も(唐招提寺・東大寺はもっと後の話)、ということになれば、元興寺は瓦を持っていきましょう、ということになったのかしら、なんて想像しますね。
東大寺・興福寺を焼いた南都焼き討ちでも元興寺の本体は焼けずに残り、飛鳥の瓦がここに残るというわけ。平安宮の建物は残ってなくても、平城宮の建物は唐招提寺に残ってたり。不思議よねえ。
あと、猿沢池から南側、今の「ならまち」は元興寺の境内だったのよ。
飛鳥の瓦
さてその飛鳥の瓦。極楽堂(本堂)の一部と禅室の一部に残ってます。
モザイク模様になってるの〜。
かわいい!
瓦のふきかたもちょっと変わってません?丸瓦を重ねているのね。行基葺といいます。
瓦がモザイクになってるのは、瓦造りにまだ慣れてなくて火の加減に失敗したとかなんとか言います。でも、当時すでに土師器どころか須恵器もあったくらいですし、釉薬をかけたものもどこかの博物館で見てるんだけど、あれは藤原時代のものだったかしら。瓦も見様見真似で、須恵器職人に作らせたのではなくて、瓦博士をわざわざ大陸から呼び寄せて作ってるのよ。意図したんじゃないかなあと私は想像しましたよ。
「どの色がお好みですか。こういう色もこういう色も出せますよ」って瓦博士に言われてさ。モザイクがいい!って蘇我馬子や蘇我蝦夷が言ってたらかわいくない?
一部こんな瓦、一部飛鳥時代なのも面白いお寺さんでした。
法輪館
元興寺の宝物館は「法輪館」。撮影禁止です。
ここにミニチュアの五重塔があって、あら、昔あった五重塔のレプリカなのかしらと思ったらそんなことはない。
本物の、奈良時代に作られたものです。当初は「こういう風につくりましょー」という模型だったのかもしれないけれど、奈良時代のものなのよ。
宝物はオンラインで見られないわけじゃないからぜひ見て!
https://gangoji-tera.or.jp/watch/buddha.html
藤原氏の興福寺、天皇家の東大寺とは異なり、後々の元興寺は民衆の信仰を集めたようで、菩提寺でもあったのでしょうね。骨壺のようなものも発掘されてます。
だからでしょうね。地蔵像というか、石像が境内にこんなにある。
あと、ガゴゼ!昔々「ガゴゼ」という鬼が出たんですってよ。その鬼が消えたところが「不審ヶ辻子町(ふしがつじちょう)」
今回宿泊した、ホテル尾花のあるあたりです。⇒ホテル尾花
元興寺文化財研究所
このとき特別展で、元興寺文化財研究所の関わった、復元品・複製品の展示がありました。
なんと、当時の技法を用いたというからびっくり。
多分萩がきれいなんだろうな
木の縁側って、暑くなりすぎないから足の裏が気持ちよかった。
で、これは萩ではないかな。萩の見頃は9月末から10月頭くらいの表示があったような気がする。シーズンだったら、静かなお寺に地味だけど可憐な花が似合うだろうなあ。
拝観料は大人600円。