河を渡って黄沙にきました。
⇒朝の珠江を渡って黄沙へ行きました
広州はアヘン戦争よりも前に中国が唯一開港していた都市です。だから、アヘン戦争後にイギリスはその入り口にあたる香港を割譲させるわけですよ。租界といえば上海なのですが、そんな経緯のある広州にもないわけがない。その広州の租界がここ、沙面です。長崎の出島みたいなもんかな。
そんな租界のあった沙面ですが、入り口にあたる黄沙はヘドロと魚介類の臭いで臭いのなんの。
橋を渡ってようやく少し静かで、あまり臭くなくなりました。

「ヨーロッパの街並みが楽しめる」とか言いますが、それはヨーロッパを知らないからじゃない?ドヤ顔で言いましたが、北欧4カ国とフランスとオーストリアとスイスとドイツしか行ったことがありません。
まあまあ。
私はむしろ、中国人の生き様を楽しみました。
だってほら、こうだよ?もろに中国趣味じゃん。西洋建築に住む中国人というやつ。
ほら、1930年代40年代上海ものの香港映画・中国映画ってあるじゃない。「上海グランド」も「追憶の上海」そうだし、「ブラッド・ブラザーズ」も「マイ・キングダム」もだし。「ラスト、コーション」も後半は上海じゃん。ああいうのを連想しました。
それぞれの映画のお耽美な絵面とは程遠い現代中国の広州ですが。
緑の多いところ
緑が多く、花壇も(アジアにしては)整備してあるので香港や広州の人ごみから逃れることができて一息つけます。
中にはいくつか銅像があったりね。
それはごく一部。マンホールから飛び出る人とかいるみたいですよ。見つけてないけど。
気分が俄然盛り上がってきた!
私が気になったのはむしろ建物の方。いわれの書いてある建物もいくつかあります。「これは何年に日本のナントカが」とかね。
多くは(植物以外に)何か西洋趣味をぶち壊して回る要素が入ってる。それがいいのよ。なんかアガってきた。
この窓についてるルーフが調和をぶち壊す。
イイ!すごくイイ!
屋上屋の違法建築!本当は何かしらないけど。すごいよねえ。
日本なら絶対だし、アメリカならマスト。ヨーロッパでももう少し外壁をメンテナンスするだろうと思われる建物のそっと奥を見れば、そこには今ここで生きる人々の生活があります。
ここが租界だった頃、中国人が立ち入るのは難しかったでしょう。汪兆銘政権成立後にこれを支援する日本は特権を返上し、他の西洋列強もこれにならい、租界はなくなります。日本軍は広州を占領し去ります。次に国民党政権が台湾へ逃れ、共産党政権が樹立します。
その間に、立ち入るのが難しかった租界に中国人が住み着いていくのです。
どういう人たちだったんでしょうね。
駐車されている車を見れば、その地域がどんなところかわかります。
芳村ではヨーロッパ車を多く見たのですが、ここではむしろ日本車をよく見ました。そしていくつか見る謎車ですが韓国車か中国車でしょう。芳村の河畔と比べると少し生活レベルなどが落ちるのではないかな。
賑々しい装飾
いくつか赤い提灯が飾ってあるところがありました。
日本で赤提灯といえば飲み屋ですけど、どうなのでしょうか。

観光客用のものとしてはスワンホテルというホテルがあり、レストランも散見されます。まだ朝が早いので準備中かな。
こういう賑々しい装飾があるのはどうもレストランみたいです。
ホテルの安い広州ですが、スワンホテルは一万円超すし、そこそこのクラスなんじゃないかな。

この近辺にセブンもあった。景観をぶち壊すのだけど、ストックホルムのガムラスタンだってボディショップがあって、びっくりしちゃったのです。
ただし、生きるってそういうことだと思います。
ゲストハウス?

Hostelworld.comで調べてみたけれど、見つからない。
今でも使われてるっぽい税関があったり、小さい博物館もあるみたいだけど、時間が早すぎました。
中国のスローガン?
黄沙に引き返す
空が泣き出しそうだね。
南国らしいマングローブ系の街路樹に握手して沙面を出ましょう。
沙面の橋を渡ると、朝とはだいぶ様子が変わっていました。
市場はもう終わってる。だいぶ綺麗に片付けられてる。日本人の感覚ではやっぱりまだ汚いなって思うけれど、多分中国的には清潔なんだと思う。
さあ、ボートに乗ろうか。
今度はどんなフェリーかしら・・・アレの後だからね・・・ちょっと怖い。