杭州:中国京杭大運河博物館と拱宸橋 [世界遺産][2025年12月 杭州旅行]

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拱宸橋(拱宸桥 gǒng chén qiáo)というのが、京杭大運河関連の世界遺産の一つです。南端なんだけど、現代では大運河は寧波まで通じているので、ここは普通に船が行き来するポイントです。すぐ近くに「中国京杭大运河博物馆」があります。

拱宸桥

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私は比較的羽田空港を使います。

そのまま地元に、地元から乗り継げるとは限らないので前後泊することが多いです。問題は前泊ですね。東京の交通は荷物を持っている人に過酷ですし。そんなことを書いています。⇒羽田空港近辺で前後泊するならば。どのように考えて選んでいるのか

結論を先に出してしまうと、身も蓋もないけれども、国際線に乗るための前泊ならば、やはりロイヤルパーク。⇒ザ ロイヤルパークホテル 羽田に前泊しました

——————————引き続き「姉御の一人旅ガイド」をお楽しみください。

中国京杭大运河博物馆

ここは、予約不要です。土曜日に行ったら、前の広場で、「元気な年金生活者」みたいなお祭りやってました。ありゃー。しくじった。

博物館の中でも、彼ら、結構元気がいいからね()

大運河博物館

考古学的なものもなくはないけど、主にあったのは、大運河についての解説。私はそこまで詳しいわけではないから、とても面白かった。

隋唐の運河と、元の運河以降の現在の運河は一部異なります。ここ杭州、蘇州で見た運河に、西安に行くときに天津から北京の間で見た運河は隋唐時代の運河とほぼ同じところでしょう。

大運河博物館

隋以前の運河

スタートは、呉王夫差から。長江の北側にも作ってたの!

大運河博物館

魏王の運河に、越王勾践の運河に、始皇帝の運河に、曹操の運河もある。そうか、范蠡本人が伍子胥と夫差の「呉」つまり、現在の蘇州城を見てるんだわ……なんで勾践の話が出てくるかって?そりゃあ、この地は「越」だもの。勾践の時代の「越」の中心地は会稽。勾践は夫差に、会稽山に追い込まれて負けた。現在は杭州と寧波の間の紹興なのだ。紹興酒の紹興だよ。

隋の大運河

隋は南方のこれをつなげる。民を動員したと悪名高い煬帝だけど、実はお父ちゃんの文帝(楊堅)時代から運河計画をやってるんですよ。誰が指揮したかは別の話だけど。

大運河博物館

隋の大運河は、洛陽と余杭(今の杭州)、涿郡(たくぐん)と洛陽を結ぶ、「く」の字型です。

涿郡というのは、現在の北京近郊です。煬帝は、ここを高句麗攻めの拠点にしてる。大運河の完成は610年。

隋は南北統一のときの手段として運河を使います。南方の既存の運河を繋げていくんだけど、統一後はそれを使って南方から北に物資を運ぶようになる。

高句麗との戦争は、598年から。煬帝の悪名高い大運河掘削は、洛陽から涿郡へ向かう北方ルートなんですよ。大運河の向かう先が涿郡というのは、高句麗対策が一つあるとしか思えぬ。

など思ってた。

結局、高句麗が滅びるのは、唐の高宗時代です。

朝鮮半島は、東アジア最弱wwwとか笑っちゃいけない。

ひろし君こと煬帝は部下に暗殺されますが、あの人は元々将軍として、なかなか有能ですよ。高句麗はその煬帝を撃退。

唐は太宗本人が親征してます。太宗こそ、軍を率いて良し、統治して良しの偽善者名君です。10代から20代の10年間を戦場で過ごし、煬帝没後の混乱をまとめ上げたのは結局この人。混乱期を自分の武力と政治力でまとめ上げ、その後安定期に持っていくところまでやり切った。そこまで自分でできた創業者ってあんまりいないよね。俺さまに偽善者とか言われてるけど、中国の皇帝の中で五本の指の中に入る名君だろうと思う。少なくとも、李世民がいなかったら、ひろし君没後の混乱期は、そのまま再びの南北朝ならまだしも、状態だったのではないの?その太宗を高句麗は撃退してます。

誰だよ、東アジア最弱とか言ってたのは。高句麗は煬帝と太宗を撃退してるんだから。その高句麗に押された新羅と百済の恐怖……そりゃあ、日本まで波及してくるわ。

さて、高宗時代の668年に高句麗は滅びます。その後朝鮮半島では……と、頭は西安旅行の続きだった。

↓こういうミニチュアも充実。

大運河博物館

西安と洛陽の間、三門峡が困難なのだ、という話で。唐の後は、長安はシルクロードの交易もなくなり、縮小します。シルクロードが生きていればまた変わったんでしょうけど。洛陽から長安へ物資を送りにくいのが、長安が没落していく最大の理由だったのかも。なんて思ったの。

元の大運河

時代は進み、宋は大運河沿いの、汴州に東京開封府を置いて都にする。宋の南遷以降は、わざわざ洛陽周りの運河にする必要がない。あと、土砂で埋まったんでしょうかね。元は長江と北京を最短距離で結ぼうとするんですね。洛陽側へいちいち回す必要がなくなる。

大運河博物館

今の大運河は、この元の運河が元になってる。上の地図で洛陽を流れてる河に注目。これ、黄河。こうしてみたらたしかに、「山西」「山東」だし、「河北」「河南」な気がする。山東省が北方??と思うんだけど、確かに北方ですわよ。黄河は暴れ川で流れの向きを変えるのだというのだけど、山東半島の北を通ったり、南を通ったりする……恐ろしすぎる。

その後、運河経営の制度の説明や、それぞれの運河のパートパートで用いられた船の違いなど。

プロから見れば足りないだろうけど、私には十分知らなかったことなどいっぱいあった。土曜日の午前中だからか、高校生の社会見学っぽい人たちが私が入る前に集まってたんですよ。確かに高校生向けかもしれない。

拱宸桥(世界遺産)

博物館の近くに運河が流れてて。そこにかかる橋が拱宸桥。隋唐時代ではなく、明崇祯四年(1631年)だそうな。https://baike.baidu.com/item/拱宸桥

拱宸桥

京杭大運河の、杭州段はここから始まります。南の端っこ。今は寧波まで通じてるけどね。このとき、たまたま、貨物船が通ってて、上の写真の下側なんだけど。人がバッチリ写ってるんで切ったんだけど、チラッとわかるよね。

で、その船がずずーっと行ったところなんですが、橋の上は人が多いからカットカット。

拱宸桥

橋の下の魔除けの何か、あれは蘇州でも似たようなものを見たような記憶がある。

橋の上から。造船所の跡か何かが、写真では運河の右岸にあるっぽいんだけどなあ。運河以外のところにも行きたいからなあ、ということで撮ったわけです。

拱宸桥

渡った先には、再開発して綺麗にして作った感の、「景区」があったんだけどね。新しそうな分だけ、清潔感があった。一歩奥に入ると建て替えてないのかなあ??と思われるような民家っぽいものがあって、こっちの方が趣があるのだけど、写真は出さない。美術館などもあるんだけど、お休みだった。

さて最後に、拱宸橋と現代の杭州の対比が見えるところ。

拱宸桥

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