城墙 chéng qiángとは、城壁のこと。西安の旧市街は城壁がぐるっと残ってるんですよ。中国内で最も保存状態が良いものが。
本来城墙の上をぐるっと一周する予定だった俺さま。その予定の日が雨でねえ。予定が狂ったわけさ。その後、二度城壁チャレンジするんだけど、結局登ることはなかった。
一度目は脳汁ぶしゃー、でどうでもよくなり。二度目は南側を「見た」。東西にも行く予定が、時間切れで。
脳汁ぶしゃー
西安はずっと脳汁ぶしゃー状態で。やばい状態で。「生きて帰る」を目標にしなかったら、三笠の山に想いを馳せる羽目になった可能性がかなり高い。汗で濡れた下着のせいで凍死、みたいな。
今回一番脳汁ぶしゃーだったのが一度目の城壁チャレンジよ。
「うっわ、予定が狂って2時間くらい空いちゃった…城壁というか、門を見に行きまっしょ」と思って、そのときは市の北側にいたので、北側の安遠門(安远门)へ。城壁の厚さと高さを体感しよ、くらいで。上に登ってる時間はない。外を歩いてたら脳汁ぶしゃーと、現在残る城壁なんかどうでも良くなっちゃった。
ねえ、この場所の全盛期は誰がどう言おうが唐なわけよ。前漢は「長安城」の場所が違うからさ。この城壁は明の時代にコンパクトに作ってるわけ。
唐、それも太宗(李世民)が目の前に現れそうな(幻覚ですよ、もちろん)俺にとって、明の西安だの現代の西安だのどうでも良いなって思っちゃって。
北側の安遠門
正午ころですんで逆光ですが。

映画を見るつもりだったので、2時間しかない。まあ、映画は次の日に回しても良かったんだけどね。日程的に取捨選択しないといけないじゃない?それで、無理だなーと外した博物館に行けそうだから、そっちに行きたかったの。
大気汚染は割に酷いけど、日光も結構あって。上に上がったら太陽を遮るものもなく、どのように回ろうが結構大変なのは想定できた。
蘇州同様、城壁周辺は公園化されてて、おちゃんぽ。こっちなら木の影・城壁の影を歩けるからね。連日2万歩くらい歩いてて、あんよは結構痛いんだけど、むくんでるわけではないから、ま、いっか。
蘇州の後だから、お堀が。
安遠門の外だけど、お堀↓こうして見ると蘇州が水の都なのがよくわかった。お堀の広さが違う。蘇州蘇州と言って申し訳ないけど、だって、この西安の前の中国体験は4月の蘇州旅行なんだもの。南東の蘇州、北西の西安。気候も植生もちがうねえ。(西安は針葉樹が多い)

蘇州蘇州と言ってるけど、優劣の話ではない。江南の呉と、西北の長安。統一王朝に挑戦しつつも統一することはできなかったところと、統一王朝の都。それは全然別個のもので。
別のものを見て、比較してようやく実感して理解できることというものはたくさんある。それは優劣の比較ではないのだよ。

城壁のすぐ外側の公園
城壁のすぐ外側は公園になってて、木々の中を歩くなら、そこまで大気汚染もひどくはないかなあとかさ。
わかりにくいけど、ところどころボコっと出てて、ここから攻撃できるようになってる。

そういうところもなんか明だなあ(知らんけど)。
蘇州も一部城壁が残ってて。しかも蘇州の旧市街は、伍子胥の時代からアウトラインが変わってないのだということで。碁盤の目みたいな設計も通りもそのまんま。大躍進時代まで、手を加えながら伍子胥の時代の城壁、城門の位置は変わってなかったのだという話。城門の跡を発掘すると、伍子胥の時代のものが出てくるという話だからね。城門としても盤門は主に元の時代のものが残ってる。⇒蘇州:盤門
しかし、ここ、西安は違う。城壁がぐるっと残っているとはいえ…これ、元の前の明の時代のものです。しかも唐の長安城の大きさではなく、唐の宮城(隋由来の太極宮)と皇城(役所)だけっぽくてねえ。
と、テンションがかなり低かったわけだ。
西安城の城壁と太極宮
テンション低いなりに歩きながら思ってたのは、太極宮のこと。
隋は前漢由来の長安城(その宮城は未央宮⇒蕭何が作った!前漢長安城未央宮遺跡)に手を加えるのではなく。少し離れた場所に左右対称の大興城を作りました。北側に「天子は北に座して南面する」という宮城を置くんです。
唐もまた当初これを使います。それが後に「太極宮」と呼ばれます。
大明宮は公園が作ってある。玄宗の興慶宮にも公園が作ってある。じゃあ、太極宮は?無理なんですよ。今の城壁の内側だから。西安の中心部だし、この明の城壁を壊さないとならなくなってしまう。
安遠門から公園部分をちょっぴり西側に歩いてたんだけど、ところどころにいろんな解説がある。その中に見やすいのがあった。

で、太極宮の殿舎が並んでる先に四つ区画があるでしょ。たぶんあれが皇城=役所街です。現在の西安城の城壁は太極宮と皇城部分くらいを囲うだけです。
隋末に李淵はこの大興城をいち早く抑え、隋(というか煬帝)が集めていた物資を使うわけですよ。そこのところはこの本の切り口↓が面白い。
ただし、先に読むべきはこっちだと思うね。
とにかく李淵が即位して唐が成立。都市は「長安城」で、隋の宮城をそのまま使う。だから、成立当初の唐の長安城には、ぽこっと北東側に出ている大明宮はないんですよ。
中華後宮事典には、唐代の長安城の図がありました。太極宮と大明宮もありましたよん。
「玄武門の変」の玄武門は、太極宮の北門よね
その後、秦王だった李世民は玄武門の変で兄の太子と弟を殺し、父親の李淵は李世民に禅譲を余儀なくされます。李世民は李淵のために北東に宮をつくり、李淵は太極宮を嫌ってそちらに住んで、そこが大明宮になっていく…というわけ。大明宮の博物館でも「李世民」からスタートだったから、時系列的には、玄武門の変からの大明宮なのよ。
で、西安旅行の予習教材に「貞観政要」も読んでいた俺さま。いや日本はいいよね。全訳あるんだもん。
理解できたとは言わないんで、ビギナーズクラシックを読むほうが良かったかもしれん。とは思う。
とにかく、直前に頭が貞観(=李世民の元号)だった私は「玄武門」って(今の)どこだ?問題を抱えて西安に来てたわけ。
玄武というからには北側なのは明らかです。(わかるよね?東=青龍、西=白虎、南=朱雀、北=玄武。姉さんは、鴨川ホルモーで覚えたwww。)
上の地図に、「玄武門」が二つあるのがわかりますか?現在の大明宮の北門も玄武門という名前にしてあるし、あの地図でも大明宮の北門が玄武門。時系列的に、李世民の玄武門の変の舞台が大明宮のはずはない。
李淵が嫌ったという太極宮。その北門で兄弟殺しのクーデターが起きてるわけよ。どこかしらねえ、ホテルからそんなに離れてなさそうだけどなーと思ったの。
玄武門、玄武門!はぁー!玄武門の変!
でね、あの地図。実はこうなんです。いやもう、今回の西安は脳汁ダクダク祭りだったけど、いっちばん脳汁ぶしゃーだったのがこのとき。

今西安市自强西路宁西宾馆停车场内尚存巨大夯土台基,推测为玄武门遗址。
叫びそうだった。
高徳よ、高徳、宁西宾馆ってどこ?

おっけー、行く。
一番近い出口は小北門こと尚武門。うんうん。門道が四本もあって立派立派。「小」つけちゃいけないね、あんたは立派な城門だよ。

うんうん分厚い。ほんと分厚いよ。どこで読んだんでしたっけ。「宋以降は攻城戦で黒色火薬を使うから城壁が分厚くなる」っての。ああ、ビブリオが必要だーよ。ビブリオが。とにかく、なんか、レンガが明って感じ(知らんけど)

えーと、この先(↑の撮影ポイントの背中側にいかないといけない)は歩きにくそうだ。
ということで近くのバス停からバスでレッツゴー。ばあさんたちに席を譲ったり譲られたりして、降りた!降りた!(最近、中国ではじいさんばあさんたちが席を譲られるのを前提にして、譲られなかったら怒るとか流れてたんだけど、毎回毎回譲ったらすっげー感謝されるよ?日本以上に)
なんか人が入るし。宾馆(ホテル)だし。ホテルっぽいところだったから、入ってもええんちゃいます?と入ったら…

うん。これでええの?あの奥になんか木が生えてるけど……気になるけど……高徳や高徳……

あ、ここなんやね。そうなんやね。
と、満足した。
ここからはホテルが近いんだけど、歩いて……ホテルに行くかな……と思いつつも、ホテルの近くの映画館にそろそろ行ったほうが良さそうだったから、次のバスに飛び乗り、また席を譲ったり「座りなさい」と言われたりしながら、バスを降りた。
表面上は、ばあさんに席を譲り、お礼を言われるおばさんなのだが、もう頭の中では、「しゃー(殺ー)!」ガチャガチャガチャガチャと合戦の音が……聞こえ……(幻聴
百度によると位置が違うって
で、帰国後この記事を書くんだけど。そういや百度で探してみよ、と思ったわけよ。ちゃんとあったじゃん……
https://baike.baidu.com/item/玄武门/6387012
↑以前の写真が貼ってあるんだけど、どうもあの木の奥なのね。
でね。
70年代には、確かにこの場所が「玄武門の変」の玄武門と考えられていたけれど、80年代には違うのでは?ということになり、400mずれた「铁路职业技术学院」ではなかろうか、って。
再びの高徳(iPad版)。铁路职业技术学院というのはキャンパスが2つあったねえ。

赤いのが俺さまが行ったところ。で、そのすぐ近くの黄色が一つ目のキャンパスで、青色もキャンパス。並行させるとそうかもしれんところはこのあたりかなー。百度の書き振りでは、400mずれるなら、青色だね。
そっか。いや、俺は研究者ではないから。そこで何かを採取したわけでもないのだし。
相変わらず、バスの車内で幻聴が聞こえていたとき、玄武門の内側にいたってわけだ…みたいな満足をしてる。だって、考えてもみてほしい。こびとvsこびとじゃないのだよ。相手は李世民なの。あの人は度胸があるし、人も上手く使う(最後がいけないんだ最後が。後継者はそいつにするべきじゃないんだ)。しかも、将軍としての最盛期に違いないんだから。クーデターは短期決戦。一気に軍を動かすよ。兄貴だって、襲われるのがわかって玄武門に行くんだから。
そして、玄武門の大きさだってさ。太極宮は隋由来。ひろし君(楊広=煬帝)を思い出すと、その玄武門は大明宮の丹鳳門サイズでもちっとも変ではない。
李世民は「貞観政要」でさんざん楊広をバカにしてる。
楊広の蕭皇后は、北方の突厥(隋の皇族の義城公主が可賀敦=王妃になってた)に煬帝の血を引く幼児を連れていて、一種隋の亡命政権を作ってたけれど、突厥の崩壊後に蕭皇后は帰還するんですね。李世民がこの蕭皇后に「あの頃と比べていかがですか?」と聞いてドヤろうとしたんだろうな。しかし、蕭皇后に「陛下は普通のものをお使いで質素ですね」と返されてる話がある↓。太宗(李世民)よりもド派手に決めるのがひろし君だよね。いや、知らんけど。
通ったところも、絶対、つわものどもがゆめのあと。大変満足してる。
南側の永寧門
これはまた、別の日のこと。現在の西安の城壁の、南側には永寧門があります。

立派立派。ただしながら…北側の安遠門になんか似てません?

なかなかの広場になってて、この先は有料区域です。うん、そうだろうな。傍から城壁の中に入ったけど、なかなか政治的にセンシティブなものが写ってたので出さない。センシティブさに気づいてなかったぞ、俺……目の前にいるのに
この日もあんまり空気が綺麗ではないので、最後に博物館に行くつもりだったの。これが西安市内で過ごせる最後の日でさ。結局、東西の門は見に行けなかったというわけ。

























