「ぱんろんちょん」「はんりゅうじょう」という遺跡名を聞いてもわからんわな。

ここは1950年代の長江の洪水がきっかけで発見された、商代、「殷」という方が通じるかな?の時代の遺跡です。その次が周。春秋戦国時代を経て、秦による統一。というとなんかわかる?商は紀元前1046年に周によって滅亡しますが、あれが「易姓革命」。「封神演義」は殷と周の王朝交代の時代を舞台にします。
武漢博物館、湖北省博物館でも盤龍城遺跡を結構じっくりと特集してた。これが、今も発掘中。
https://jp.news.cn/20250131/3c812d0503ae4b548b38c96cb57bf4fc/c.html
遺跡公園には、博物館部分と、遺跡部分があります。
盤龍城遺跡博物館
博物館部分は、当日でいいので予約が必要です。私は係に手伝ってもらった。パスポートの登録が必要です。
さて、中に入ると、重要なものはおそらく湖北省博物館や武漢博物館にあるんでしょう。展示物はあんまり重要でもゴージャスでもないんだと思う。
ここはねえ、なんというか。別の凄さがあったのよ。「この場所」というやつ。
青銅器もそうですね。よく似た形のものがだあああああああああっと並ぶ。他の地域とはちょっと違うんですよという展示とともに。


土器もそうですね。

土器は見事に薄いんです。
思わない?青銅器も土器も…見事に…なんか…大量生産されてるというか。
これ…おるね…専門職が…
高級貴族、貴族、平民がいたとされてたけど、階級とともに職業があるんじゃないかな…知らんけど!
さて、緑松石=ターコイズの飾り。

そういや、武漢博物館では気づかなかったな、湖北省博物館ではターコイズが多かった。
やはり、湖北省はターコイズが出るんだ(Wikipedia情報だけど)。
青銅器の分布とか。陶器というか、土器は長江下流の浙江省からここを経て、中原に入って行った、とか。
黄河流域の二里頭文化が、一番初めに中原を出た先が、ここの長江中流域だった、とか。
へー…確かに、武漢に来るときに、華北平原をまっすぐ南下して武漢に来たんだけど、遮るものは何ぞや?だった。そりゃ、ここを落とせば、許昌まであと少しだ…皇帝を曹操から奪うぞ…という、三国時代の荊州争奪戦を思い出してたんだよね。それは他の時代でもそうで。中原から一番初めに出て行きやすい場所でもあるわね…
俺が見たかったのは、これ。宮殿の模型です。武漢博物館にあったのは、前後二つの建物でワンセット、という、中国の建築様式がこの時代からあった、というのだった。
こっちだと、建物一つなんだけど、構造がわかります。
いや…これ…あの…母屋があって、庇がある、という…スタイルじゃないですか…


こっち↑の方がわかりやすいかな?
壁の部分が、母屋。その左側に太めの柱がありますね、これが庇、その外側の細い柱が孫庇でいいと思うの…
あの…これ…寝殿造の、一つの建物の構造です……日本の古ーいお寺なども、そうなってるところがあるから見てみて……
私が入った中で、一番わかりやすくて、入れるのは、大覚寺の宸殿かなあ。後水尾上皇から下賜されたという建物だけど、これは東福門院和子の女御御所だったものなのよ…観光客が歩いてるところ、それが孫庇の下じゃないかなあ…次に行けたら、お寺で聞いてみよっと。
つまりだね、俺は「建物のデザインが、商の時代にすでに完成されてたのね…」と悶絶しちゃったというわけ。
遺跡部分
発掘作業している場所もあるけど。公園としては、なんかのどか……

下はコール天、上はトレーナーで、その上にウルトラライトダウンを着てたけど、ちょっと寒くてね…足も痛いし。少し見たから、宮殿の方へ。
あー、これなのよ、これ。

内側に土壁あるでしょ。これが母屋。そして、見えるかな?中にはちゃんと柱が入ってました。壁は日干しレンガだけではなさそうよ。
外側に庇の柱。どこからどこまでが再現かわかんないけど。

公園内は結構な広さで。私は奥の方まで行ってない。公園内を走れる有料電動カートがあったんだけど、どう運転すんの??と思って、やめたの。