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お世話になっているKKdayさんと話し合って、これまでに体験させていただいたもの、私が買ったもの、興味があるものをまとめていただきました!
KKday
——————————引き続き「姉御の一人旅ガイド」をお楽しみください。
瑞光塔
南門側から歩くと、こんな景色になって。
あれ?わたち、お寺に来たっけ?と思うけど違うんだな。
入場料は40元です。これまたパスポートを見せた。
ちょうど小学生がたくさんいてねえ…あまり写真はない。
実は、別料金で宋代の塔に入れる。登れるかはわからん。
お子ちゃまたちが?と思って、逃げました。結局、お子ちゃまたちは入らなかったようなので、残念であった。
庭園
塔をやり過ごすと庭園です。
↑の建物はかなりあたらしそうだった。この建物の前で、お子ちゃまたちはなんか発表会だったっぽい。
やはり、水が淀んでるんよなあ…
盤門へはなんか変な路を通ったのよ。ここ通れって書いてあったからさ…
盤門
小学生をやり過ごしたら、今度は見た感じ高校生かなあ…という感じの若者の集団に。おう…
この角度だと、陸門ぶりがわかりますかね?ゲートが二つあって、それで一つの門です。
日本のお城の門にもあるような、入り口と出口が対角線上にあるような。つまり、まっすぐ進めないから、枡に貯まっちゃう。それで上から攻撃するってやつ。専門用語があるはずだが…
そして、↓で水門ぶりがわかるかな。水路から侵入して攻めようとしても、弓が飛んでくる。
再び上から。こんな感じなのよ。
で、呉門橋は左の見切れてるやつ。
外に出た後だけど、これが呉門橋(のはず)
城壁を歩く
で、この城壁も歩いたんだけど、かなり厚みがある。
そりゃそうですね。元だから、「てつはう」使ったりするよね。大砲まではまだかしらね。
門側の出口は、本当にこの、盤門の陸門の外側だった。
伍相祠
外には、伍相祠、つまり伍子胥を祀ってあったの。伍子胥の最期はわかるよね?
知らん?
今回の副読本は「史記」だぞ。「呉太伯 世家第一」「越王勾践 世家第十一」(ちくまだと3巻目)、「伍子胥 列伝第六」(ちくまだと5巻目)。
俺さまはチャッピーではないけど、簡単にまとめてあげよう。
越王勾践が、太宰の伯嚭という人物に賄賂をおくってだね。伯嚭と伍子胥は越への対し方で対立していく。そして、呉王夫差と伍子胥の間が…。びーのえるではない。君主と能臣の間を引き裂くとどっちかお亡くなりになるのが中国史。夫差が斉を攻めようとしたときに、伍子胥は後ろに勾践がいるぞ、と反対し。伍子胥は斉に使いに出されたときに子どもを斉に預けちゃう。伯嚭が讒言して伍子胥は死を賜った。「我が墓の上に梓を植えよ、それで呉王の棺が作れるように。我が目を抉ってを門に掲げよ。越寇が攻めて呉を滅ぼすのが見られるように」と言い残し、夫差は怒って伍子胥の遺体を長江の水に浮かべた…
呉人は憐れみ、伍子胥の廟を作りました、って。胥湖のほとりの胥山に廟を作ったのだとか。ここにある廟は80年代のものみたいで、ずっとあったわけではないみたいだけどね。
その後、伍子胥の言う通り、夫差の斉攻め中に勾践が背後を襲い。呉の都が落とされて、太子が捕まった。その呉の都こそ、この蘇州ですよ。
その後何年もかけて、勾践と夫差の戦いは続くけれど、勾践が勝つ。范蠡は夫差を殺せと勾践に進言します。勾践は一度助けられてるので躊躇するけど、結局は夫差を流罪に。夫差はそれを聞いて「伍子胥に合わせる顔がない」と布を被って自決。
た・ま・ら・ん!裏にいる范蠡が。
范蠡に関しては独立した記述はないけれど、「越王勾践」の後半は、その後の范蠡の話。その後の范蠡はめちゃ面白いよ。「狡兎死して走狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵る」が、呉の滅亡後に出奔する范蠡が同僚の文種に送ったお手紙の言葉。伍子胥は日本人好みだと思うけど、それじゃ滅んじゃうわ。文種に関してもうちょっと書いてあげてよ、司馬遷。
さて、一説には、伍子胥は「我が首を掲げよ」と言ったとか。史記は「東門」にしてるけど、東は相門かな…越は蘇州から見ると南西側なわけですよ。南西側にあるのがこの盤門。
でもさ、このタイプの城壁のある都市を攻めるなら、門は全て押さえたいよね。じゃないと逃げられるもんね。だから、どこでも良いんじゃないかな(無責任)。
歩けなくはない
歩けなくはない距離です。