閉じるまで二条城におりました。⇒ようやく入れた!二条城。欄間を見て!
二条城から、四条堀川のホテルに戻るなら、そのまま来たとおり、堀川通りを行けば良いんだけど、まだ明るいし、路地を歩くことにしました。
夕闇に度肝を抜く鳥居
ムフムフ「ここらは・・・」って妄想しながら歩いていたら、本当にキンキラキンの鳥居⛩が出てきました。
狙って行ったんだけど。
実際に行くと、わっはーって笑っちゃいました。
今回行った神社仏閣のなかでは由緒のある神社ではないんだけどね。狭い境内だけど、実に賑わっておられました。
賑わってる=御利益がある、ってことでございましょ。
私もちょっぴりお買いもの。
時間のせいか、人が多いからか、ここの御朱印は書き置きでした。
- 御朱印:300円
- おたから小判:500円
- お賽銭
ここの周辺はマンション街ですし、この通り(西洞院通)のこの周辺はそんなに道幅がありません。
行かれる際には、騒がれませんように。
地図を見ていただいたらすぐにわかるんだけど、二条城のすぐ近く。
今は路地担ってるけれど、ここらは平安時代は大邸宅!!!
エリア的に、ここは平安時代なら、堀河殿・閑院・東三条殿、という、藤原北家のでーっかいお屋敷が並んでいたところです。
東三条殿は、まさしく東三条女院(詮子)が使ったとこで一条天皇の出生地。後の四条大納言藤原公任がまだ若い頃に、姉の遵子が円融天皇の后になったときにこの東三条殿の前で「この女御は、いつか后にはたちたまふらむ(ここの女御さまはいつ立后されますかな、されますまい)」って言い放って、同じく円融天皇の女御だった詮子を激怒させたってあ・そ・こ。
詮子は皇子(=一条天皇)を出産したけれど、遵子は出産しなかったんだよ。
だから逆に一条天皇即位後に公任は皇太后の詮子側から「素腹の后は、いづくにかおはする」ってやられちゃう。もう、公任って抜けてるわあ(かぁわいい!)。道長のライバルになる器じゃねえ。
ついでに公任の息子の定頼も舌禍があって、和泉式部の娘の小式部内侍を激怒させて「大江山生野の道の遠ければ」って詠まれちゃう。返歌を返せずに逃げ出すんだもの。
これ、絶対遺伝だってば。