今回、飛ぶ鳥の明日香で妙に私が避けてるような感じの人がいません?
そう。聖徳太子。
別に意図して聖徳太子を忌避したわけではないんだ。
明日香に残る遺跡の、最も上層部にはおそらくここを拠点にした最後の天皇、持統天皇とその夫(天武)の痕跡が残ってるだろうから、推古天皇時代の遺跡が白鳳時代のものに覆われてしまうのはしかたがないことかな。
「聖徳太子」がいたかどうかは別として、推古天皇の太子だった厩戸皇子の存在と、厩戸皇子の子・山背大兄王の存在まで否定するものでもないかなと素人さんは思うの。我が愛しの法隆寺に斑鳩宮の火災の痕跡があって、日本書紀の記録と一致しますしね。
というわけで。甘樫丘を降りるとそこにあったものは、推古天皇の痕跡だった。
日暮れは近い。今回の明日香2days、明日香村最後は、日本史上初、いや、東アジア史上初の女性君主であろう、推古天皇の追っかけです。⇒甘樫丘に登る
向原寺(豊浦宮跡)
甘樫丘を豊浦休憩所の方に降りて、大きい道ではなくて住宅地を歩きます。
難波池
しばらくすると小さい水溜りのような「池」があります。住宅地の中なので写真はないんだ。
飛鳥一帯が、蘇我氏の本拠地なんだなあという感じではあるんですが。このエリアがまさしくそういう場所です。
さて、蘇我馬子といえば物部守屋。私がいうと、BL的なことを指してるように見られがちだが、そういうことじゃない。男性同士が愛しあい殺しあうのはめちゃくちゃ好みです。そういう話じゃないんだ、仏教伝来にまつわる、あの話。
今回の副読本「日本書記」の出番ですよ。
まずは欽明天皇の巻を見ておくれ。蘇我稲目(蘇我馬子の父)が百済から来た仏像(直前任那問題で対立していたので、和睦??と私は思った)をもらいうけ、初めに「小墾田の家に安置し」ついで「向原の家を喜捨して寺とした」というの。結局疫病が流行して物部守屋の進言で、天皇の詔で官人が寺を破壊し、仏像を奪って「難波の堀江」に流し捨てるんです。
次が、敏達天皇の巻。馬子は仏教を篤く信仰するが病になり、稲目の時に仏像を捨てたせいだということで、再度仏像を、というのだけどやはり結局疫病その他で(以下略)、守屋が進言して天皇の詔があり、守屋が直々に寺に入って寺に火を放ち、焼け残りの仏像を「難波の堀江」に捨てさせます。
守屋、一回じゃなかったね。二回だったね。
「難波の堀江」というなら、難波津と思ったらそうじゃないらしい。ここだというからおったまげる。
おったまげながらもあり得なくはないかなあと思うのがこの場所。
実は豊浦宮跡のすぐ近くなんですよ。
人間関係の整理
その前に人間関係を整理しましょうかね。
欽明天皇の父は越後からやってきた継体天皇です。同じ一族の内部だったとしても、遠縁なのは明らかなのでね。一種の王朝交代のようなものがあったと考えていいと思うんですよ。欽明天皇の母は、武烈天皇の姉妹の手白香皇女。というわけで、継体天皇が同じ一族かどうかは別として、欽明天皇は女系で一族の血を引きます。
この時代、天皇というか、大王(おおきみ)はある程度成熟した人物が好まれたようで、30歳はすぎてから即位します。そして、終身です。兄から弟へ位を移し、世代交代をするときには兄の子が優先したくさい。欽明天皇の兄二人も継体天皇没後に即位しますが、本命は手白香皇女の子の欽明天皇だったのか、欽明天皇が長生きしたからなのか、欽明天皇の後には欽明天皇の四人の子が順に即位します。
即位した順番が、敏達→用明→崇峻→推古。そして推古天皇の没後は、敏達天皇の孫にあたる舒明天皇が即位します。
これが多少ややこしくて、用明天皇と推古天皇は同じ蘇我堅塩媛を母にする兄と妹です。敏達天皇と推古天皇は、異母兄妹の仲ですが、推古天皇は敏達天皇の皇后でした。ただし、舒明天皇は推古の孫ではない。
崇峻天皇は蘇我小姉君が母ですが、同母姉妹の穴穂部間人皇女がいて、穴穂部間人は用明天皇の皇后です。で、用明天皇と穴穂部間人の子が厩戸皇子。
豊浦宮跡
今は向原寺というお寺さんがあります。ほらほらほらほら。稲目が「向原の家を喜捨して寺とした」ってあるじゃない。守屋ちゃんが破壊するんだけど。

お寺さんだから写真を出してもいいかなと思ったけれど、観光寺院化したお寺さんではないのでお静かに。
ああ、守屋ちゃん。蘇我稲目・馬子の家を破壊して、近くの池にぼちゃん!と捨てたというわけなのね。
さて、その蘇我馬子が、崇峻天皇(馬子が殺したって、日本書紀にはしれっと書いてあったんだけど)の没後に即位させたのが東アジア初の女帝・推古天皇。
その、推古天皇が一番初めに宮を構えたのがこの豊浦の地なんだそうな。そして、推古天皇は自分の宮(小墾田宮)を作って移るけれど、豊浦は寺になったという話。
私の理解では(全く同じ場所とは言わないけれど)このエリアは稲目の寺→物部守屋の進言で破壊→馬子の寺→守屋による破壊→豊浦宮→豊浦寺 と変化したのかなあ。


中には入らずに、さて次へ。
古宮遺跡。小墾田宮はここじゃないらしいね
推古天皇は豊浦宮を出てから次に小墾田宮に入ります。
さて、この「小墾田宮」。私はGoogle mapに従って歩くわけですが、小墾田宮ではなかったっぽい。
今回のGo To明日香のメインは持統天皇だったけれど、持統天皇は天武天皇の皇后。天武の兄は天智天皇で、持統は天智天皇の娘だった。天智・天武の母が皇極天皇(=斉明天皇)。
皇極天皇から持統天皇までは、基本現在「飛鳥宮跡」と呼ばれているところに住むことが多い。⇒飛鳥宮遺跡
でも、皇極天皇が「小墾田宮」に入ったという記録が日本書紀には残ってます。その小墾田宮とは推古天皇の使った小墾田宮だったのだろうか。「墾田」が「開墾した土地」という意味でしかないならば、地名というよりも、飛鳥の外れにあったのではなかろうかと思ったり。
推古時代の建物は存在してたのかなあ。時間の経過を考えてみるとヒントになるかな。
皇極天皇時代に645年乙巳の変。推古天皇は600年第一回遣隋使。ということで推古天皇と皇極天皇は50年くらい違う感じがするんだけど、実は推古天皇が628年没です。炊屋姫おばあちゃん、長生きだったもん。
推古ー舒明ー皇極という順番ですが、そもそもが推古天皇が40年くらい帝位にあったからさ。
後の女帝たちを孝謙天皇まで辿ると、(皇極と孝謙が重祚しますが)皇極・持統・元明・元正・孝謙とみな譲位してますけれども、「譲位」というのは、乙巳の変直後に皇極天皇が初めて行ったことであって、それまでは天皇(=大王??)は終身です。推古天皇時代には譲位という発想がないんじゃないかな。
だから、中継にするなら体の弱そうな人、例えば推古の異母姉妹の穴穂部間人(聖徳太子の生母。用明天皇の皇后)でもよかったんじゃないかと思う。推古の母と穴穂部間人の母は姉妹で、蘇我稲目の娘たちなんだから。
ただ、推古の息子の竹田皇子も、穴穂部間人も、穴穂部間人の息子の厩戸皇子に、推古を引っ張り出してきた蘇我馬子すらもみんな推古よりも早くに死んでしまうのは結果だからねえ。推古天皇が中継として即位しても、結果的に統治者になったのかもしれないしね。
話は皇極天皇と推古天皇の「時間」に戻しますと、皇極天皇が即位したのが642年なので、推古天皇が亡くなった628年から15年程度です。小墾田宮の建物はまだあっても変じゃないし、なんらかの施設として使われてても納得できない?
だから、明日香村ではずっと妄想しながら歩いてたわけだよ。こんな感じのところ。

お、おう。
田園。普通に、田園。いつの時代かに開墾して田畑になっただろうから、墾田ではある。
しかし、こういうものがある。

しかも、小墾田宮ではなかった模様。そういや、どこかから「小治田」と書かれた土器が見つかったってあったよな。Googleマップみてここと思い込んだんだが、そっかー、飛鳥川の向こう側の雷丘東方遺跡かー。
ここは蘇我氏の庭園かー。
雷丘東方遺跡は向原寺から反対側だったけれど多分、そこもこういう調子ではなかろうかと思うんだ。しかも行けるかどうかはわからん。
ひょーっとしたら、豊浦宮があっただろう、向原寺から近いんで、ここは豊浦宮に付随する庭園だったかもね(無理やり言う)
なお、撮影ポイントは、駐車場兼バス乗り場(豊浦駐車場)です。
舗装されてない畦道伝いに、遺跡の方に行けなくはなかろうけれど、明らかにどなたかの私有地に侵入するわけでして。地元の人ならまだしも、よそ者がやっていいことではない。今現在稲が植えられてないからいいという話ではないんだ。私有地に無断で入るというだけでなく、靴の裏に虫の卵などをくっつけてることがあるから、本当に入っちゃダメよ。
というわけで、ここで私の明日香2daysは終了しました。