今回一番楽しみにしていた博物館がここでした。西漢南越王博物院。10元です。パスポート見せるだけではなく、登録してもらわないとならないのが中国よねえ…
ホテルの正面ですが、中国のちょっと大きな通りあるあるで、道を渡るのが大変な通りです。

西漢とは、漢です。日本でいうところの前漢。我々は、「漢書」「後漢書」にしたがって、前漢・後漢と言いますが、中国では西側の長安に都があったので、西漢、東側の洛陽に都があったので東漢と呼びます。どっちが正しいかの話はしない。中国で「西漢」と言えば、前漢のことやね、と思ってくれればオッケーよ。
南越とは、秦の官僚が秦滅亡後に建てた国です。どさくさにまぎれすぎや。結局漢の支配下に入るけど、遠いからさ…半分独立国みたいなものだったんじゃないかな。漢に対しては王、このエリアでは皇帝を称したんだって。(皇帝・王・公の順番だよ)
このお墓は、二代目の文王の墓です。そうです。支配地域では、文帝。時期としては、漢の武帝の時代くらいのお人です。
出土品なども、いろいろあるんだけど、やっぱりここは海洋なのよね。殉葬したのだろうと思われる夫人たちの持ち物などの展示もあったけど、特別展としてやっていた劉賀展のすごさとはちょっと違った感じ。
南越王
建物は、入ってすぐの建物と、王墓側の建物に分かれてます。入ってすぐの建物で時間をとってしまうよりも、先に奥まで行った方がいいと思う(経験者)。入ってすぐの建物は、一番初めに南越王墓のダイジェストみたいな感じ。そして特別展と、寄贈されたらしい陶器の枕コレクション。枕コレクションも、撮影してるけど「寝にくそうだな…」で終わっちゃってるから割愛。

文帝の璽↓。

金印だよ。他にも、彫られてない印などたくさん出てた。
南越文帝(文王)は、いわゆる、玉を縫い合わせた服みたいなやつ(玉匣 ぎょくこう。金縷玉衣 きんるぎょくい)を着ていたのがわかっているけれど。

実際に残っていたのは、歯の部分だけだったようで、その展示はあった。
副葬品の中で素晴らしかったのが、この玉杯。

そして、この玉佩。↓これは、売店でキーホルダーになったりしてた。

王墓部分は、本来下まで入れるようだけど、このときは入れないようになってた。

劉賀展(特別展)
これがすごかったのよ。劉賀と聞いてすぐにわかる人は少ないよね。漢の武帝の孫。昭帝没後、霍光(霍去病ならわかる?霍去病の弟)が、宣帝の前に立てた皇帝で、一ヶ月もたたないうちに霍光によって引きずり下ろされた人。前漢は、劉邦と呂雉の後は、武帝が有名だけど、宣帝は中興の祖として讃えられる、中国の皇帝の中でも名君の一人にカウントしていいんじゃないかな。民間で育ち、武帝の苛烈な統治を緩和した寛容な君主であったとされる人です。
お墓は2011年に発見されたものです。
発掘現場からはこんな感じで出土したんですってよ。

おそらく金は武帝時代のものだということで。上、中、下と書かれた、こういう金塊が、これまただああああっとね。いろいろ映り込んでて、あいぽんで除去しようとしても今度はピントがズレてたり、ガラスが指紋などで汚くなってて、一番綺麗に見えるのがこれかな。

劉賀の母方の祖母は武帝の寵を受ける李夫人。といってわかんないね、李広利(匈奴に投降した人)の妹です。李夫人は早くに亡くなり、李一族は没落するけれど、李夫人の産んだ子として劉賀の父親の昌邑王はいろいろと与えられていたようで、劉賀は父親から相続したのだろうと書かれていました。
いきなり前漢の武帝期とその後について思い出させられるけど、さすがに李広・李陵、李広利、衛子夫(衛皇后)と衛青に霍去病まではパッと出てくるけど、霍光は出てこない。ただ、それは解説に書いてあるので、中国語が読めれば問題ないwww
霍光は、有力な外戚のいない劉賀を即位させることで自分の権勢を維持しようとしたのだと。上官皇太后(霍光の孫。昭帝の皇后)の詔によって、劉賀は引き摺り下ろされるけれど、その理由は素行不良。
しかし、出土品からは劉賀は子どもの頃から儒学に通じた人物だったことが伺えて。木簡などもあったけれど、全然知らなかったのがこの衣鏡。「孔子衣鏡」。いわゆる、姿見です。↓もちろん復元品。

いわゆる、姿見です。本物は鏡部分だけがきてたかな。https://www.afpbb.com/articles/-/3409661
班固の「漢書」の描き方などから、劉賀の、昌邑から連れてきた家臣団は霍光を排除することを画策し、それが漏れて反対にクーデターに遭ったのでは?という推測がありました。劉賀本人がどこまで知ってたかはわからない。まるで知らないわけはないだろうけど。
劉賀の宴会はこんな感じだったのでは?と復元されてた。

屏風などは、南越王部分にもあったから、この南越王博物院のものなのではないかな。
たしか、この銅鐸も復元品だったと思うけれど、色がついてたのかーって。

前回、上海博物館(東館)でも思ったけど、復元品をつかって「シチュエーションの再現」が、すごくリアルな体験だった。
宣帝は、なのか霍光は、なのか、素行不良を理由に帝位から引き摺り下ろされた劉賀を殺さないんです。はじめは「霍光は、」で霍光没後の霍一族の排除後の宣帝は、幽閉されていた劉賀を海昏侯に封じ、「血は繋がっている」と生かしながらも祖先の廟へのお参りを禁じます。二十代で歩行困難になり、たった三十三歳で死んだ劉賀本人がどう思ったのかは別だけど、その墓には財宝が…つまり、少なくとも、劉賀は一文なしだったということではないのよね。
中国は漢ですでに貨幣経済になってるので、民間で育った宣帝が、厳しくするならば、シビアに劉賀が父から相続しただろう財産を没収してると僕は思うんだよなあ。
漢、それも前漢の時代にすでに貨幣経済かよ、とか。南越王の方だったと思うけれど、蒸留酒をつくってたっぽい、とか。
ひたすら、前漢すげー…でした。前漢で国家として完成されてるんですよね…何度でも復習しましょう。
- 紀元前221年、斉滅亡=秦による統一
- 紀元前209年、陳勝呉江の乱
- 紀元前202年、垓下の戦い(項羽の死)と、劉邦の即位
まだ「前漢すげー」が通じないか。これでどやっ!
- 239年、魏の帝(おそらく明帝=曹叡。曹操の孫)、親魏倭王の金印を邪馬台国の女王に与える