今回の目的は、越王勾践剣。湖北省博物館にあります。通称「湖博」らしいんだけど、同じ略称が使えそうな湖南省博物館も凄まじそうなんだが…それはまたおいおいいくとして。

この日は雨だった。
長江中流域の博物館
お墓から出てきたものをまとめて出してくるんでねえ…それも2010年代の出土品みたいな、アップデートしながらの展示です。
例えば上海博物館は主によそのものだから、青銅器の変遷、なんて切り方ができるよね。上海のお墓から出てきたのは陸家(陸遜の子孫)のものだったなあ…。ちょっと規模が劣る。台北の故宮博物院は、歴代皇帝の宝物、という括りではあるし、なぜ台湾なのか、という近代史的文脈はあるけれど。その宝物そのものの時代からはどうしても切り離されちゃう。
湖北省博物館は、ある身分の高い人のお墓の中に、その人の使っただろう品々が残されてて。それがぶわああああっと出てくるので、その時代について大変濃密でねえ。私は青銅器が好きなはずなのに、本当に、もう、青銅器、良いです、ってくらいだったのよ。
どっちが良い悪いの問題ではなく。切り口が「この地域」と「時代」だったのですごく新鮮で濃密に感じられたという話。
越王勾践剣
越王勾践(こうせん)って通じる人手をあげて。通じない。そうか。
ならば、こっちならわかると思う。臥薪嘗胆。春秋時代、呉王は父の仇の越王を討とうと決意して薪を枕にして寝、見事越王を捕らえて屈服させた。一方、呉王に屈した越王はこの雪辱を晴らさんと、決意を忘れぬように苦い熊の肝を舐め、ついに呉王を打ち破った…の、越王です。ペアになる呉王は夫差(ふさ)。越王勾践と范蠡(はん・れい)、呉王夫差と伍子胥(ご・ししょ)の組み合わせで覚えよう。伍子胥は楚の人。
なぜか、越王の剣が、楚の貴族の墓から出土してるんですよ。それがこれ。

なぜ勾践剣かというと、勾践が自ら作りました、って書いてあるから。
勾践は娘を楚王に嫁がせてるので、娘に持たせたのでは?説などあるようです。
何がすごいって、ざっと2500年くらい前の剣なのに、錆びてない。私の写真でわかるかなあ。鋒も鋭いのよ…でも全然長くないんですね。日本刀だと、脇差しくらいのサイズ感。
ついでに、呉王夫差矛、呉王夫差剣も別の部屋にあったけれど、どちらも錆びてた。写真がねえ…人が入り込んでてだねえ…カットカット。呉王夫差剣の方はもっと短くて、懐刀とか短刀などのサイズ感。矛とあんまり長さが変わらんのでは?と思ったよ。とはいえ、日本刀は脇差しでも短刀でも結構ずっしり来ますよね。鞘まで入れたら、きっとこれらもずしっとくることでしょう。
実物見ると、この勾践剣は実用品ではなく、嫁入り道具だったのかなあ…説を思いついちゃった。だって宝石の装飾があるんだもん。楚王の宮廷で娘が軽んじられないように、という父親の愛情よ。知らんけど。
呉王夫差剣の方も、与えたものだったかなあ…とか。日本でも殿様が家臣に刀を与えるのは割にある話ですし。大変名誉なことだし。
曽侯乙
勾践の時代から少し降って、戦国時代。この人の記録は史書には残ってない。しかし「曽」という国の「乙」という君主だったのだろうと思われる。随州で見つかったので、「曽」は「随」で良いのか?という展示など、「曽」に関する展示も面白かった。そうですよ、日本語の「ずい」です。うんと時代を下るけど、煬帝の「隋」、遣隋使の「隋」は、もともとこのエリアに封じられてたからなのよ。「随」だったのをしんにょうが入るのを嫌って字を変更したのだとかあったっけ。
俺はね、現代日本語読みだと「楚」と「曽」が同じ「そ」になるなあ…って思いました。もちろん当時の音のことは知らん。
一番はこの編鐘ということになってる。

人が持ってるというデザイン…
しかし、私は一緒に出土している漆器の方に目が奪われました。↓漆器。

は?残ってんのかい!!ってびっくりした。漆塗りの木棺もどっどーんと。
これ↓は曽関連だったかな…とにかく、青銅器と同じようなデザインの漆器や、琴などの木製品が出土してるんですよ、このあたり。

発掘の模様の写真があったけれど、ごろごろ転がってるのよ。青銅器や漆器が。
こっち↓は敦だったかな。青銅器です。

この手の丸いのも、いっぱい見たなあ。
そして、これも曽関連の出土品だったと思う。

ひいいいい。
これは「曽」関連のコーナーだったと思う。

銅壺。やはり、商代のものと比べると、デザインが洗練されてくるというか、柔らかみ・丸みを帯びてくるよね。
この地域(長江中流域)の歴史
別のコーナーでは、この地域の歴史をざあああああっとまとめたのもあった。石器時代からろくろ的なの使ってね!?的な、うっすーい土器があったり。商(殷)の時代の遺跡がありますよ、春秋戦国時代から、楚の文字。竹簡木簡があるんだけど、複製品がほとんどだったかなあ。これが細い細い。びっくりしちゃった。中国ドラマで使うじゃないですか、木簡の巻物。あんなんじゃないから。あと、楚なら忘れちゃいけない、老子や屈原。
項羽と劉邦も楚の人。前漢が倒れたあと、王莽に対して反乱を起こした緑林軍も楚。光武帝だってこのあたりにいた…から、三国時代へ。劉表の統治、黄祖と孫策、劉備、赤壁の戦い、夷陵の戦い…とか、出土品としての展示は、呉の弩だけなのに、地名の列挙とどこで何があったという説明だけで、もう胸いっぱいになるヲタク…三国時代の出土品なら、武漢博物館の方が多かったかな。
その後、唐になると、これ。

いきなり写実的に。
とにかく、ここは交通の要衝だったんだな…そして、治水ができれば、大変豊かな農地になる…実際、元以降はこの辺りが主な食糧生産地になりますしね。(唐までは興味があっても、そのあと急速に興味失っていくのがバレバレ)
今回、華北平野の上空から南下して武漢に降りたのだけど、武漢周辺になると、田んぼに水がはってあったのを思い出したり。清で一度終わりだったかな。近現代コーナーはこのときは閉じてました。
明の、梁荘王
明の親王夫妻の墓からの出土品コーナー。これがまたキラキラ。
例えば親王の帽頂。

冕冠もあったよ。でもこっち↓。明の男性は、唐・宋に引き続き、花簪を使ったというけど。
もう、牡丹ですわよ、牡丹。

なんちゅうキラキラ親王。
親王妃の魏氏は平民出身だったという話だけど、これまたすごい。金凰簪。

細工の見事なこと…なんちゅうキラキラ親王妃。
と、合計5時間半くらいの滞在でした。音楽はタイミングが悪くて聞けなかった。
予約必須
2025年3月現在、予約必須です。前日までに予約しないといけなくて。当日は無理なんじゃなかったかな。土日は早く取らないと、予約できないこともあるみたいだから要注意。
微信で予約しますが、ここはパスポートの番号を入れておけば大丈夫。QRコードが発行されます。現地では、このQRコードをかざして顔を撮影させると、入館できました。