浙江省博物館は、新たに之江館区(浙江省博物馆『之江馆区』) ができています。之江馆=zhī jiāng guǎn。之江文化中心といって、色々な施設があるっぽい。この日は午前と午後に分けて浙江省博物館を梯子するつもりだったけれど、いやいやいやいや。之江館区の考古学パートが面白くて、結局6時間滞在してしまった。新しい博物館だけあって、説明もかなり詳しくて、今年見た中では、湖北省博物館と並ぶ、詳しく学べる博物館だった。プロが見て学べるという意味ではないので念の為。俺さまのように、せいぜい、複数の新書を読んだ、くらいの人には良い。
地下鉄の改札から結構な距離を歩くよ。雨が降っても濡れるのは↓のところだけだけど。
まず、予約について。中国の博物館は、基本無料だけど予約前提。これがねえ。浙江省博物館は、微信のミニプログラムは予約ページに行かず。携程は微信のミニプログラムに飛ばすし。同程が行けそうだったんだけど、外国のパスポートを想定していない。アルファベット不可だから俺たち日本人は漢字でも良いんだけどねえ。アリペイのミニプログラムも、外国のパスポートを想定してないのか「実名登録がおかしくないですか?番号がおかしいですよ」とか言ってくる。
結局、予約に使えそうなのは飛猪で。ただ、行ってみたら、アリペイのアカウントで入れそうでしたよ。これが中国www行ってみないとわからんところがあるから、ほんと。
土日は予約して、とあったから予約したけど、どうも?不要だったかもしれない。これが中国。
中国の博物館は、みんな譲り合って写真を撮るんですよ。結構行儀が良い。
富春山居図(剰山図)
これが、ここの最大のお宝みたい。元の黄公望のもので、山水画における「蘭亭序」みたいなものだとあった。
アップで見れば、筆の跡も見える。
文字が多い剰山図が浙江省博物館にあり。絵が多い方が……台北の故宮博物院です。あるとき所有者が共に火葬して欲しい、と言って。そういうところが「蘭亭序」と言われるゆえんでしょうかね。王羲之の「蘭亭序」は太宗が昭陵に一緒に納めて欲しいと言ったという話があるからね。とにかく、「蘭亭序」は行方不明で、唐末に昭陵が荒らされたときに失われたのかなと思うんだけどさ。「富春山居図」は息子が火の中から救い出し。修復されたけれど、分割されちゃったわけです。
四階にあるので、早めに行った方が良かったかも。私は、なんか忘れてるような???と思って、ようやく思い出した次第で、それなりに並びました。
台北の故宮にあるものの複製品や、その世界観的なビジュアルコーナーもあったけど、並びたくなかったら、こういうところはみられます。
なお、「蘭亭序」の「蘭亭」は、会稽山にあったので。お隣、紹興市です。それもあって、いくつか「永和九年」のあれがあったんだけど、さんざん西安で見たから割愛。
秦以前
稲作文化の故地なんですよ。西安が針葉樹多いなあと思ったのに対して、こっちは照葉樹が多くて、風景もなんか馴染みがあって。なんか馴染み深い雰囲気がありました。そうそう。ここの博物館で気づいたんだけど、「距今5000年」つまり「今から5000年前」みたいな書き方をしていて、「紀元前」でカウントしないのか……と思った。-5000年とカウントされるなら、2000年を足せばいいだけですが。
銭塘江が流れる杭州を「長江流域」と言うには厳しくね??と思うんだけどねえ、大陸のスパンで、長江と黄河の二つにぶった斬れば、確かに長江流域ですね。
上山文化
浙江省の銭塘江流域の上山文化が稲作の故地では?ということでその証拠。野生の稲を栽培していたのだ、というやつです。今から約1万年から8000年前という時代です。
https://j.people.com.cn/n3/2020/1117/c95952-9781043.html
ここの陶器は、紐状のものを上に重ねていく作り方だったとか。縄文土器と同じ作り方でした。貝塚まであって、おお、島国と同じじゃん!と。
河姆渡文化
河姆渡文化はすごいよ。ほぞ継ぎしてるよ……今から7000年前から5000年前くらいのものです。
中国の農村DIY動画を見ると、壁は日干しレンガで、土間のものが結構多いんですよ。なんと80年代に建てたという家でもそうだから。北方では窓すらない。南方の農村DIY動画には、二階建ての家もあるんだけど、一階部分は土間とかね。ふぁ!?って思うもん。
一方、河姆渡文化では、床を張った高床式で、それはむしろ我々の見覚えのある、吉野ヶ里遺跡みたいな雰囲気よ↓高床式は、湿度が高いからなのだということです。
これ、縄文時代後期とか弥生時代の建物なのだと言われたら信じちゃう。この時代、食べ物を狙ってやってくる野生の猪(いのしし)を半家畜化したりしてたって。
ここまではすごく親近感があった。
良渚文化
黒陶と玉器で有名な。今から5000年前くらい。杭州の余杭区に良渚博物館などあるんだけど、ホテルから地下鉄で1時間以上かかるのでね。今回そんなに時間をとってないから、ここで見られてすごく良かった。
ジオラマがあったけど、これ……環濠集落じゃないですか……
この玉器を見てよ。新石器時代なので、まだ金属の道具はないのよ。(台北の)故宮博物院などで、玉器の作り方(切り出し方)などあったけどねえ。なんとまあ、どうやって彫り上げるんだろうねえ。
陶器も、もうこれは。ろくろを使って大量生産してるよね、これ。
越
越以前のものもたくさんあったけど、割愛して、越へ。越王勾践の、あの「越」です。越の地に青銅器の技術が入ると、剣を作る技術に優れるようになった。
印山越王陵(印山大墓)は、勾践の父親の允常の墓だとされている。ふぉおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!俺、大興奮。ぐるぐるぐるぐる(このレプリカの周囲を)回ったからね。
詳しい話は↓あたりで。
https://www.hyogo-koukohaku.jp/modules/xelfinder/index.php/view/793/第14号_213-220頁_印山越王陵_岡田章一.pdf
https://baike.baidu.com/item/允常墓/10011025
勾践の息子の剣とされる、「越王者旨於赐剑」↓。
香港の古物商のところから発見されたというもので、どう発見されたのかいまいちわからん。
https://baike.baidu.com/item/战国越王者旨於睗剑/9772745
見事さという点では、やはり越王勾践剣の方が上だと思う。ここにもレプリカがあったけれど、俺は本物を湖北省博物館で見たのだよ。わはははは。
結構アル化の強いお父さんが、熱心に娘に説明してて、娘も熱心に質問してて、思わず見てしまった。ごめん、何言ってるかはろくに聞き取れてないから。
勾践は呉の夫差を倒すけれど、越はその後に楚に支配される。なので、楚の蟻鼻銭もあった。楚=湖北省。ということで、今年見たのがリンクされるぅ。
秦から唐まで
え、一気に唐までやるんかい?ですが、「杭州」だからそうなる。スタートは、李斯の会稽刻石碑、の模刻の拓本のレプリカからです。模刻の方は西安の碑林博物館で見たのだ。わはははは。今年見たいろんなものが、ここでまとまっていくねえ。いいねえ。
後漢末期から人が流入し始め、決定打は晋が移ってくること。そして南北朝へ〜なんだけどね。人口が増え、江南の開拓が始まり、煬帝による南北統一、そして大運河〜なのだけど、秦以前の陶器と青銅器の技術を基礎に、この面でも突出していくって。
正史三国志組は、長江を南に渡って来た人たちが、呉には結構いたのを思い出そうぜ。孫兄弟の親父さんの孫堅は、ここ杭州の人だった。越の人だね。でも陸遜をはじめとした長江に近いエリアの呉地方の土豪連合の性格が強いなあと思う。しかし、長江を南に渡ってきたのは張昭や諸葛瑾(諸葛亮の兄貴だよ)がいて。後漢の名門を飛び出してきたっぽい周瑜や、商人だった魯粛もそこにカウントしていいかはわからんけど、周瑜や魯粛は長江沿岸地域の人ではあるけど、長江北岸から南に渡った人なことは確か。
さて、浙江省博物館には後漢や三国時代のものはあるけれど。いわゆる「三国志」で想像する時代って曹操時代メインでしょ……時代カウントは後漢。
なので浙江省博物館でも「後漢」と書かれているものが孫権の時代の可能性はなくはないぞ……と見ていた。
例えば、会稽鏡。↓は「後漢」の西王母紋様のもの。三角縁だー。
武漢博物館で三国時代の俑、場所的に呉のものと思えるものの、埴輪に通じるところを笑ったけれど、多分それは当時の美意識なんだろうねえ。↓確かにあの俑に通じるものがなくはない。
↓東晋。確かに、良渚文化の黒陶の雰囲気が残ってらっしゃるような気がする。
六朝コーナーには、仏教や、上に書いた通り「永和九年」から始まる「蘭亭序」のなんとかとかたくさんあるんだけど、飛ばす。多分それは南京だろうなと思ってて。隋唐も飛ばす。西安で太宗が向こうから駆け寄ってくる勢いで幻聴まで聞こえたからね。
そういや、ここで唐三彩や唐のお馬さんを見た記憶がないなあ……陶器の墓誌はあった。
呉越
隋唐かっとばして、(北)宋…の前に、杭州では避けて通れないのが、五代十国時代の「呉越」。海洋貿易(日本含む)で富を蓄え、最後の銭弘俶が北宋に(戦わずして)降伏するのだけど、宋の時代に銭家は官僚を輩出し、実は今でも続いてるようで。
唐の昭宗が銭鏐(せん・りゅう)に与えた、金書鉄券、のレプリカです。
本物は、銭家の人が寄贈して、北京の国家博物院ある。
https://baike.baidu.com/item/钱镠铁券/18146173
だから銭鏐って誰や?って話でしょ?唐の昭宗は唐の最後の皇帝。銭鏐は唐末の混乱期に台頭したわけです。この人が呉越を建てたわけ。「唐は正統な王朝である」という命題が真ならば、「正統な王朝に認められた銭鏐」という命題を真とする証拠として、銭家にとって大変大切なものだったんだろう、と俺は思ったね。
北宋・南宋
杭州は宋ですよ(宋ですね!)。景徳鎮よりも、龍泉窯の方を良く見たような気がする。
宋と聞くと、我々「水滸伝」のせいで(北宋)末期のことを考えてしまうし、腐敗していて、ずーっと遼に押されっぱなしだったイメージがあるじゃないですか。非常に安定した社会だったのだ、というのが浙江省博物館の評価だった。北宋は遼に、南宋は金に押されてたけれど、江南のお金で解決したとも言えるなあ、というのが私の感想。
北宋は160年間、南宋は150年間なので、馬鹿にしてはいけない。
とはいえ、騎馬民族に押されていたのも事実よね。
浙江省博物館では、南宋は「漢人の国」を非常に意識したのだということで。いや??それは徳寿宮での説明だったけ。とにかく、↑こういう、かつての青銅器を模したような陶器もたくさん作られたのだとか。
宋では黒色火薬の発明など、戦術が変わる。そういう説明もあった。同時に海洋技術に関しても。
他にも、明の結婚式のものや、明清中心の漆器コレクションなどもあったよ。


























