「唐長安城大明宮」として、「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の一部として世界遺産に登録されています。
大明宮 dà míng gōng

(大明宮遺址博物館より)
ネット上で中国人的には「大明宮国家遺址公園(大明宫国家遗址公园)は復元がいくつかあるだけで、有料だし、広すぎるし、有料だし、ガラガラでろくに復元されてるわけでもないので行く必要はない」だった。
私は結構楽しんだけど、広さに圧倒されたというか。広さとその場所を味わうだけなら無料部分でも十分なのも確かですし。
そもそも大明宮とは何か
唐の時代の、皇宮は三つある。隋由来の太極宮が一番初めの皇宮。大明宮は、太宗(李世民)が父親の高祖(李淵)のために建てたものが元になり。その後、高宗と言ってもわからんよね、則天武后の夫だよ。この人が大明宮に居住場所を移す。以降武則天が洛陽遷都前にこちらにいたり。玄宗は大明宮の南方に興慶宮を作るけれど、安史の乱以降は興慶宮は廃れ、粛宗以降は大明宮がメインの居住場所になる、みたいですね。
以下は基本Wiki情報なんで、大学のレポートなどでこういう書き方をしてはいけないよ。(せめてWikiに書かれている資料にあたるんだ)
- https://ja.wikipedia.org/wiki/太極宮
- https://ja.wikipedia.org/wiki/大明宮
- https://kotobank.jp/word/大明宮
- https://ja.wikipedia.org/wiki/興慶宮
大明宮は、西安の城壁の外にあります。今の城壁は明の時代のものなので、コンパクトな西安城の城壁なんだけど、元々の長安城の外にあるんですよ。一番上に出した写真のとおりで、北東にポコっと出てる。
位置としては、西安駅のすぐ北側です。平城宮跡みたいな、大型の史跡公園になってます。
大明宮に行った遣唐使を探せ!
斉明天皇時代の659年が第四回遣唐使。洛陽で高宗に会ってるようですね。(関中平原だけでは食糧が足りず、ご飯を食べに洛陽に行くんですよ、唐の時代には)斉明天皇は、661年に亡くなり、以後しばらく中大兄皇子の太子称制。
高宗は663年に大明宮に居住を始めた模様。この年に唐と新羅の連合軍は、白村江の戦いで百済と倭の連合軍を破るわけです。665年に中大兄皇子は第五回遣唐使、668年に天智天皇即位。第六回遣唐使は唐に行ってなさそうで、第七回遣唐使を出します。敗戦処理だな…683年に高宗は亡くなる。我々的には672年が壬申の乱。
武則天の即位と洛陽遷都が690年。705年に唐の復活。日本史的には、ちょうど面白いことに武周時代と持統天皇時代が被るんですね。
697年が文武天皇の即位で、701年がいよいよ大宝律令。702年に第八回遣唐使。山上憶良が行ってる。大宝律令作ったよって言いに行ったんだな。その相手は「唐」ではなく武則天の周だったので向かった先は洛陽かと思ったら。この大明宮で会ったのだと、大明宮では言っていたよ。そっか、山上憶良って最晩年に近い武則天に面会してるんだ。

大明宮遺址博物館より
712年玄宗即位。717年元正天皇の第九回遣唐使。阿倍仲麻呂・吉備真備が行ったのがこのとき。733年聖武天皇の第十回遣唐使。栄叡・普照がわたる(鑑真を連れてくる人)。752年孝謙天皇の第十二回遣唐使。副使が吉備真備。阿倍仲麻呂が帰れなかった回で、鑑真来日。新羅と席次争いをするのがこの大明宮です。
755年から763年が安史の乱(こうして見ると長いな…)
756年粛宗即位。757年長安奪還。このあたりからは長安で皇帝がいるのは大明宮なんでしょうね。770年に阿倍仲麻呂は亡くなっているので、仲麻呂はこの大明宮でも働いてるな、きっと。
飛んで804年が桓武天皇の第十八回遣唐使。空海・最澄の回です。映画の「妖猫伝」では皇帝が死にかけてたけど、そのときの皇帝は805年に亡くなる徳宗ですね。なので、徳宗がいたのはこの大明宮では?
さらに飛んで834年が仁明天皇の第十九回遣唐使。なかなか行けなくて小野篁がボイコット(して隠岐に流される)。円仁が渡る回です。藤原常嗣は麟徳殿で文宗を拝謁。
- https://ja.wikipedia.org/wiki/遣唐使
- https://ja.wikipedia.org/wiki/山上憶良
- https://ja.wikipedia.org/wiki/安史の乱
たかまるぅぅぅぅ!
馬鹿でかい丹鳳門
地下鉄の西安駅から丹鳳門(丹凤门)広場を目指します。駅の北側にあるので、目指せばよろし。
でね、地下鉄西安駅の手荷物検査の行列を見て、帰りは西安駅はやめよう…と思いました。
長めのエスカレーターを登って……ドーン……

でかい……中国ドラマの後宮ものなどで門がオープンするシーンがあるじゃない。あれは正門じゃないのかもしれない……と思うほど。

この丹鳳門が南にある正門です。丹=赤、鳳=鳥。そう、朱雀です。長安城の南側に朱雀門があるので、ここは丹鳳にしたのだと書いてあった。
丹鳳門博物館
有料ゾーンと合わせてここも60元。

蘇州でも城門の中に博物館が作ってあったけれど……こっちの充実度は低いかも。確かに、ネットの中国人たちが、行かんでよろし、と言うのもわかる。ただし、ここね。
トンネルが何本あったか、とか。城門の中(土を積み上げて、外側がレンガ)とか。これを見るために来た、みたいな。

大きさを体験するためだけだったら、入る必要はないです。ぐるっと門のまわりを一周すれば良いよ。
復元についてとか。どう使われたのかとかの説明。
面白かったのは、洛陽の応天門(!)との比較。遣唐使は洛陽に行く場合もあったからねえ。あっちもこの規模でしょ……応天門と聞くと、平安京の応天門の変を思い出すけど、この規模だと、そんなに簡単に燃える??
含元殿
そして、PM2.5がゼロとは言わない、濃霧の広場のその先に見える……あれが含元殿……写真だとあの迫力がわかりにくいな…

山上憶良も阿倍仲麻呂も吉備真備も藤原常嗣も足が震えたんじゃなかろうか……特に山上憶良は斉明天皇時代に生まれて、聖武天皇時代に亡くなってるから。大宝元年の遣唐少禄から記録が残ってても、それまで無名の人な訳はないのだよ。と言うことは、最低でも藤原宮を見ていて、おそらく……あの小さな小さな、飛鳥浄御原!
飛鳥浄御原も藤原宮も行きましたけどね……藤原宮は柱がちょびちょび立ててあるだけ。それで良いんだけどさ。平城宮の大極殿も見ましたけどさ。
この先は有料部分なので、チケットを見せて入ります。

基壇部分だけが復元してあるんだと思うけど、山上憶良になった気分で、もう圧倒されちゃった。
白村江の敗戦処理をしただろう、第七回遣唐使が長安まで行ってるなら、高宗と大明宮で会ってるとして、もう、「なんでなの!?なんでこんなのバンバン建ててる連中に喧嘩売っちゃったの!?(中大兄)皇子にしっかり言い聞かせないと、滅亡する……」とか思わないかな。そりゃ、天智天皇は防人を置き。狼煙でリレーするようにしますよね……
サイドから上がっていくわけだけど、わかった。ここね、坂を使ってる。だからすごくすごく大きく見える。

首龍原は高台なのだ、太極宮は低いのだ(ジメジメしてて、高宗はそれを嫌って大明宮にお引越ししたと言う話)というけど。よりによってここに、門お潜ってきて一番初めに見える建物をドーンと建てたのは、遣唐使みたいな、外国から来た使節がオシッコちびりそうになる、というのが目的だわね。
上から見ると、確かに大きいは大きい。平城宮の大極宮は、こことは比べ物にならないと思いますよ。

それが当時の我が国の技術だったんだよなあ……そこから東大寺大仏殿まで行くんだから。あの頃も一種の「坂の上の雲」の時代ですね。目の前に、唐という追いかけていける存在があり、最盛期の唐は惜しみなくいろんなことを教えてくれたし。才能のある若手(しかも見てくれが良いのを選んでる)を3/4の確率で海や現地で死なせることになってでも、生きて帰ってくる1/4に賭けるよ。
あ、現代の上のコンクリートタイルが、滑りやすかったんで要注意です。
大明宮国家遺址博物館
大明宫国家遗址博物馆。これは含元宮の地下に作ってあります。

出土した物の中で、重要なものの多くは西安博物院、陝西歴史博物院にあるから。何度も言うけど、ここの目的は、「その場所」ですね。
あと、解説。

復元される前の人々の暮らし
近代の西安では、ここは人々が暮らす場所だった。太極宮は復元が難しいのだけど、それは城壁の内側を含むから。城壁の内側はほぼ、皇城、お役所街ですわよ。
大明宮の側は接収して(共産主義!)発掘し、残っていたものを保護して、みたいなんだけど。その、元々の人々の家が一部再現してあったけれど、九龍城塞もびっくりだったよ。

その他
その他、有料部分について。まずミニチュア。

ミニチュアと言ってもかなりの大きさです。
太液池。大明宮で使う水はここの水だったとか。

真夏は蓮が咲きそうだけど、絶対暑い。
紫宸殿。


