蘇州博物館西館の最寄りの駅は、獅子山駅。湖があって、山があって、と。上海から蘇州までは真っ平で。山といっても、丘みたいなものに見えたけどちょっと新鮮かも。

ここはねえ、なんというか。蘇州の過去と現在、みたいなところです。
蘇州の考古的なものはあんまりなかった。私が見たいのは、南京(蘇州のある江蘇省の省都)までいかないとないのかなあ、と思ったら。蘇州考古博物館が新たにできるのだというニュースがあって。しくじった。
https://www.suzhou.gov.cn/szsrmzf/szyw/202504/d7086bb6d1954e81a43c7f186cb7e9e2.shtml
最近の若手の作品も展示してあって、それもまた見事だったよ。文化がきちんと生きてるんだなとは思った。とはいえ、そこは駆け足で。
考古博物館ができると聞けば、若干考古の部分が駆け足な感じなのも納得。石器時代のものがあって、次に良渚文化の紹介がちょっとあった。そこからの写真を出すね。
良渚文化
武漢の、盤龍城遺跡公園の博物館で、良渚文化圏の陶器が盤龍城までやってきた、というのがあったんだよね。良渚文化というのが、長江下流域の文明で。武漢の周辺は長江の中流域です。長江伝いに行き来しやすいエリアなんだなあとつくづく思ったわけ。良渚文化のエリアとしては杭州周辺なんですよ。蘇州周辺は…良渚文化の周辺域なんでしょう。良渚文化は12月の杭州でじっくりと見てくる予定です。
良渚文化の特徴の一つらしい、黒い陶器。

模様が(我々日本人には)見慣れないよね。アラジンのランプみたいな意匠。かわいい。でもやっぱり…ろくろ的なものがありそうなフォルム…というだけでうっわー…と思うわけ。帰りに縄文土器(の復元副製品)を見たんだけど、それはそれでit’s so unique. ただしあれは大量生産できそうにない。こっちは模様をどうするかという問題がある(スタンプっぽくないし)けど、模様をつける前までならある程度大量生産ができそうじゃない?
呉国
さあ、ここから。史記に曰く、商代末期に…句呉が立てられる。国姓は姫。周の…寿夢のときに国名を「呉」に改める…。みたいな話があったり。

ちょっと丸みを帯びたフォルムの青銅器もかわゆ。
呉国の祖先に関しては、佐藤信弥「古代王朝史の誕生ー歴史はどう記述されてきたか」ちくま新書 2024年 第二章 後代の文献から見る──西周~春秋時代Ⅱ 2 祖先神話とその承認 †「政治的」な呉の系譜 で予習してた。この本は、「史記」その他の解説本の一つとしても面白く読めるのでおすすめする。
呉王夫差剣↓。武漢で見た呉王夫差剣よりも立派。武漢の越王勾践剣は美麗、ここの呉王夫差剣は鋭い感じがするなあ。

↓ウロコみたいに見えちゃってるけど、越王勾践剣みたいな模様もあった。

流行りだったんでしょうね、あの模様。
三国孙吴1号墓
これが私の目的。どうやら、蘇州考古博物館のメインは、三国孙吴1号墓らしくて。西館にあったものは、復元複製ではなかったと思うけど。本物なら、いつまでここにあるかわかんないですね。
さて、三国孫呉1号墓は、孫策夫妻の墓か、それ以外の人なのか…
とにかく。後漢末期から三国呉時代の身分の高い人の墓が見つかってます。M1のメインの墓は合葬前にも盗掘されてるそうだけど、女性の墓からかなりゴージャスなものが出てるということらしい。
確かに孫策はおしゃれさんだったっぽい。「策爲人、美姿顏、好笑語、性闊達、聽受、善於用人。」
でも呉書の周瑜魯粛呂蒙伝を読んでると、孫策時代は周瑜が必死に自分の家柄を使って金策に駆けずり回ってるなあ…という雰囲気がある。「周瑜、爲居巢長、將數百人、故過、候肅、幷求資糧。肅家有兩囷米、各三千斛。肅乃指一囷與周瑜。」「粛」は魯粛です。この頃、周瑜は孫策とは別行動をして袁術を引っ掛けてる。
周瑜が袁術の元を去って孫策のところに来たので、孫策が大喜びして迎えるのだけど、「瑜、時年二十四、吳中皆呼爲周郎。」周瑜と孫策は同い年です。20代半ばの「孫郎」「周郎」は二人で呉の市中でキラキラしてたんでしょうよ。「(建安)五年、策薨、權統事。瑜、將兵赴喪、遂留吳。」討逆(=孫策)パートではこのとき孫策「時年二十六。」
孫策が活躍した時期は本当に僅かの時期なのよね。
なので、孫策の頃キラキラしたものが孫策の手元にあったら周瑜や魯粛がさっと奪って売っぱらって戦費に当てそうだなあ…
と思ってたの。でも行ってみると、結論として、孫策墓でも変じゃないかもしれない…と思った。
さて、お墓の一部。

発掘された、金製品だけど、あんまりよくわかんないでしょ?そうなの、これ…

Pandraってわかる?ちょっと大きめの金属ビーズを連ねた、ブランドがあるのよ。あれみたいだって思ったの。(最近あんまり金属ビーズを連ねてないのかな?中には連ねてる感じのがある。https://jp.pandora.net/ja)
簪だってこれよ。

2本あったけど、もう一つの方を拡大すると、細やかさがわかるかな。

確かに金製品の豪奢さ。細工の繊細さ、それは現代でもあの時代でも高価は高価よ。
しかし、武漢で見た明の親王妃の簪↓と比べると遥かに…

湖北省博物館の、明の荘王妃のものです。
私の中で魯粛が語りはじめた。「大将の奥さんなんだもの。少しくらい飾るものがあっても」。
その程度なのよ。それがいわゆる「大喬(=大橋)」のものかは別としてね。呉書では「橋家の姉妹」は出てくるけど、姉が孫策の正妻とは書かれてない。
孫策の時代、この辺りの中心は蘇州で。孫権が南京に移すまでは中心地が蘇州。そして孫策没後、「瑜、將兵赴喪、遂留吳。」の「呉」は蘇州です。周瑜が孫策没後に蘇州にいた。ということは孫権が孫策を蘇州に埋葬したのかな…説はありえるねえ。
https://www.szmuseum.com/AcademicResearch/Detail/694280ed-d660-4b89-b400-c1ed22888177
正史の原文はこちらから。
https://www.seisaku.bz/sangokushi.html
唐三彩
一気に唐に飛ばすけど、見てたら、奈良三彩みたいだなって。いや、この唐三彩が本家よねえ。

確か、平城宮跡のどこかに書いてあったんだけど、「奈良三彩の質はあまり良くない」みたいなことが書いてあった記憶があったの。よくわかんなかったの。そこもまたうろ覚えなんで。「奈良三彩全体があまり質が良くない」なのか、「奈良三彩の中でも、展示品の質はあまり良くない」なのかもわかんないけど。
なんか…確かに…見ないとわからんやつかも。↑の白い部分は補って形を作りましたってことだと思うけど。なんとなく、奈良三彩はやりすぎ感がある。ただし、こういうものは模倣の後から始まるから。なんでも習作というものは必要で。日本の陶器文化の助走時代だったんだなってことです。
元末 张士诚母曹氏墓
孫策?よりもすごいのはこれ。
元末の紅巾の乱の頃。蘇州のあたりには、張士誠という人がいた。元は塩の商人か何かなんだけど、紅巾ではなかったらしい。
後に朱元璋に滅ぼされますが、呉王を名乗ります。その母の曹氏の服。確か復元複製とは書いてなかったよ?
巻きスカート。

細やかなの…牡丹の花…

もともと、地元の人は元娘娘の墓と呼んでいたらしいけど、本当に元末のお墓だった。
地元の伝承みたいなのを甘く見ない方が良いんでしょうね。
https://file.szmuseum.com/WaterMark/门户网站多媒体文件/academic/2021/20210816SZWZSCMCSMQLJB_GYW.pdf
特別展 アッシュールバニパル王
これは大英博物館からの貸し出しみたい。

細かい…って、文庫本みたいなものかな?

この周辺について
やろうと思えばこのエリア(蘇州駅よりも北西から西側)は、一気に回れなくはないなあ…と思ったよ。運河クルーズと公共交通機関と滴滴などを組み合わせればええんちゃいますかね(知らんけど)。記事は↓のとおり