太平天国历史博物馆は、南京市博物总馆を構成する博物館の一つです。他に私が興味があるのは、六朝博物館、南京市博物館、南京市民俗博物館。
太平天国历史博物馆の英語名称は、Historical Museum of Taiping Heavenly Kingdom。

有料です。30元。庭園部分だけなのかな、夜間開館もしてる。
太平天国を主題とした唯一の博物館なのだとあった。

世界史選択としては、「太平天国」を知らないわけではなかった。スローガンの「滅満興漢」「上帝復古」とかさ。日本語読みで十分だから声に出して読んでごらん。「めつまんこーかん、じょーてーふっこ、たいへーてんごく」って。言いやすい。けれど、そこまで詳しくなかったので、この博物館に来たんだよね。
その後に行く他の博物館(南京博物院とか)でも、太平天国に関しては、ほぼ触れなくて、城壁博物館はどうしても、城壁の話をするなら戦争の話が出ないわけにはいかない、だから多少せざるを得ない、みたいな触れ方。あれ?と。
この博物館は、太平天国の内部の制度にも詳しかったけど、もうちょっと日本語で知りたくなりました。
それで、帰国後にこの本↓を買いました。読んだ後に、(中国の博物館はフラッシュ炊かなかったら撮影可能なので)撮影して来たものを見ると、あれかー、みたいな。(レプリカは多かったけど)
……新書によると、中国全土で合計二千万人の死者ですってよ。
太平天国とは
太平天国の乱とは、清末期の1851年から1864年まで起きた、キリスト教系の新興宗教団による大規模反乱です。「滅満興漢」「上帝復古」を唱えた。
広東の客家、洪秀全を天王とし、広西から軍を起こして都は天京。天京とは、今の南京です。
当時のキリスト教は聖書のヤハヴェを上帝と訳していて。上帝というのは、もともと中国の天帝に使う単語でして。洪秀全の理解では天帝とキリスト教の全知全能の神が同じであり、「上帝復古」すなわち、始皇帝以前への復古を唱えたのだとか。
「滅満興漢」の方は、清は満州族による征服王朝であり、これを排除しようという排斥スローガン。
日本はちょうど尊皇攘夷運動の真っ最中の出来事だよ。私が高校生の頃は、アヘン戦争が明治維新に影響を与えたと習った記憶があるのだけど。アヘン戦争の後の、太平天国の乱もやはり影響がある模様です。あの時代の日本の知識人は漢文が読めるからね……
そして、日本は1867年大政奉還からの戊辰戦争へ。

洪秀全の置いた天朝宮は、清の役所だった場所みたいだけど、中華民国時代には総統府が置かれていた場所みたい。そうかそうか、この博物館にもあったけれど、孫文(孫中山)は、第二の洪秀全を自任していたもんね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/両江総督
天朝宮の模型↓

私さあ。ここで「天朝宮」をひっくり返して「朝天宮」って覚えちゃってさ。朝天宮で太平天国ものをさがしたんだけどなかったんですよ。ないよなあ??無視されたん??と思ってさ……朝天宮の話はそっちでする。「天朝宮」だったんだよ。そういうネーミングにした理由も「朝天宮」を思えばわからんわけではないなあ……
総統府とここは、馬なら、ぱっぱかぱっかっぱーみたいな距離だと思う。今でも自転車で、すーっみたいな。だって、今の地図では総統府の横の太平路(!!)を南下したら夫子廟なの。で、建康路を西に少し行って、教敷営という細い路地をを南下すれば太平天国歴史博物館。車では無理かもしれないけど、徒歩なら行けそう。
東王府?幼西王府?
一方、この太平天国歴史博物館がある場所も、百度によると太平天国のナンバー2だった、楊秀清の東王府や蕭有和の幼西王府(など)が置かれたところだったみたい。ということは、天京事変(楊秀清一派の大粛清)の舞台なのかしら。なんか違うんじゃないかと思うけど。
https://baike.baidu.com/item/瞻园/516445
だけど、新書の地図では、53年から56年の東王府はもっと西側にあるっぽかったし、博物館でも幼西王府が置かれていたと書かれてたし。でも、楊秀清だからなあ……いろんな場所に何かがあっても変ではない。
例えばの話、53年に天京に移った当初にはここに東王府が置かれたけど、すぐに手狭になって。楊秀清は西側に移動して、蕭有和を幼西王として置いた可能性だってあるだろうし……いや、そもそも西王の蕭朝貴は南京に来る前に亡くなってるしな、それはないか。楊秀清だからいろんなところにいろんなものがあっても変ではない、ということにしとこ。
博物館は、太平天国研究の中心
庭園部分で知ったけど、太平天国の研究で有名な羅爾綱という学者が「ここに太平天国関連の博物館を作ると良い」と言って、今でも太平天国研究の中心にもなってる模様です。ただし、展示はレプリカが少なくなかった。南京博物院に本物があるパターン?と思ったけど、そういうわけでもなかった。
これ↓は本物だったはず。

太平天国のコイン。
博物館は太平天国の中の制度などにも結構詳しかった。
太平天国は一つの独立国家のように、行政システムを持ち、通貨も発行した。科挙までやってる。女性対象の科挙までやった。洪秀全本人が科挙を受けてた人でもあり、中には読書人もいるのでね。伝統的な中国の官吏ってね、兵も動かすよね。この時代からはるかに遡るけど、唐の安史の乱のときの顔真卿なんか典型例だし。なので科挙を受けるような人たちは兵法書も読んでるんで。ただの農民反乱や新興宗教反乱では終わらず、なかなかの戦術を用いたのも頷ける。
大報恩寺と太平天国
太平天国は偶像崇拝を禁じていて、儒教を否定するんだけど、仏教もその矛先に。この後、大報恩寺に行くと「太平天国に破壊された」とあったんですね。
↓は石の水池。

瞻園に置かれていたようですが、幼西王府にあった模様。

わかる?端折りながら簡単に。「これは50年代に瞻園で発見された。太平天国期には瞻園は幼西王府にされていた。考証によると、この水池は幼西王府の遺物であり、明代の大報恩寺の碑を利用し、これを削って作ったものである」
上でここは東王府なの?とぐちゃぐちゃ言ってたのは、ここにはっきり「太平天国期には瞻園は幼西王府とされていた」と書いてあるから。そして博物館内にここは東王府が置かれたとは書かれてた記憶がないし。撮影したのを見返しても、見つけられない。もしもそうなら天京事変のパートで書かれてそうじゃない?もちろん見落としてる可能性は高い。
羅爾綱と、忠王李秀成
この博物館は、庭園の復元も合わせてるんでしょうかね、1950年から計画が開始して、56年開館。58年から61年が大躍進運動。66年から文化大革命、と、羅爾綱ともどもよく生き延びたというか。
特に、菊池先生の新書を読んだら思うわけよ。太平天国から学べよ……○沢○……みたいにね。
で、菊池先生の新書の参考文献では、羅爾綱先生は、文革期には李秀成の投降問題に関して、激しい非難を浴びた、と書かれてた。
羅爾綱コーナー(博物館とは別の建物)では、羅爾綱先生は李秀成自述の研究で知られ、みたいな書き方がされてたんだけど、そうか……大変な目にお会いだったか……そうか……
その、投降後の李秀成の自述のレプリカがこの太平天国博物館部分にあった。

↑読めるけど、科挙の楷書フォントではないよねえ。
南京の科挙博物館では、状元(第一位)などの答案があったんだけど、独特のフォントの楷書で読みやすいんですよ。李秀成は、広西の人で割に初期から参加してて、さらになかなかの名将だったっぽいけど、科挙を受けてたわけではないのかな。
ただし、彼は処刑前に五万字を書いてるのでねえ。私は、学部の二年制だったかな、一万字レポートが課題に出て、みんなうえええええええってなったのを思い出したよ。日本語は、ひらがなカタカナの、表音文字と漢字の表意文字のミックスでしょ。中国語は表意文字だけなので、日本語よりも圧縮されるんです。日本語だと十万字クラスだと思うんだ。姉さん中国語かけるのか?と思ったでしょ。HSK5級には短いけど作文があるんだwww
なので。ある程度でいいから、長めの文章を書く訓練をしてないと、五万字を書くのは難しいのではないかなあ。曽国藩本人じゃなくても、曽国藩が部下に命じて誰かが李秀成のそばにいて、質問してそれに対する口述をまとめながらこのように書けと教えたかもしれないけど。曽国藩側にそれだけの時間を与える猶予があったかわからんし。いずれにせよ、中国語の五万字だからなあ。そもそも楷書できれいに書いてられるかい!なところはあったかもしれない、と想像しました。
洪天貴福
太平天国博物館に戻るけど、洪秀全は天京陥落前に死に、李秀成は遺児の洪天貴福(幼王)を連れて天京を脱出しますが、捉えられます。
太平天国博物館では、その洪天貴福の自述のレプリカが出てましたが、あんまり字がきれいではない。親父さんの洪秀全は科挙を受けてた人だし、太平天国にもそれなりに読書人もいてね。いろんな字が結構きれいなんだけどなあ。
この子には字を教えてくれるような人がいなかったのか。

処刑前の恐怖で綺麗に書くような余裕はなかったのか……でも、読めますよね、十六歳って書いてあるのが。
口語をそのまんま記述したんでしょうか。あんまり中国の近代以前の知的階層っぽい感じがしなくないです?大学受験までの「国語」の中の漢文ではなく、現代中国語の知識で読めるところが少なくない。ほら、「我名字叫」とか。「老天王是我父親」とか。現代中国語では「父親」は「爸爸」で習いますが。中国ドラマ見たら「父親(ふーちん)!」と呼びかけるシーンがある。古装劇限定だと思うけど。
いやそりゃ、大学入試用の漢文の授業で「私の名前は」「〜は私の父です」なんて習わんしな。
清に対して不満を持つ読書人階級に対して、「太平天国のぼんぼんはあんまり賢そうに見えなくない?」というアピールにはなるんじゃないかなと思うんですよ。そういうふうに書かされた……?いやいや、知らんよ?
その後……
太平天国鎮圧では、最終的には曽国藩・左宗棠・李鴻章あたりの名前が出てくる。そうです、李鴻章。「清軍は近代化をしていきました。そして孫文や毛沢東などによる太平天国と評」で博物館は終わるんだけど。
李鴻章は太平天国の乱の後、洋務運動を始めて、その中には軍の近代化があった。李鴻章と洋務運動に関しては、科挙博物館でもあった。しかし、太平天国から約30年後の1894年に日清戦争。1895年に下関にやってくるのが李鴻章本人。
大国の動きの遅さというか。太平天国時代は咸豊帝から同治帝時代。同治帝の母親が西太后……太平天国末期は西太后の垂簾聴政時代だものね。同時に、明治の日本人のすごさは思いますよ。
瞻園(瞻园)
この場所は、かつて、明建国の功臣、中山王の徐達の邸宅でした。なので中には徐達関連の展示もあります。明の間は徐家ものだったようです。ほらほらほらほら、↓の鉄券は読みやすいフォントでしょう。

清になると、この場所は江南行省左布政使署になったり。乾隆帝が来たりしてます。なので、ゆかりの清の官吏たちについてのコーナーもあった。中には例えば林則徐。わかる?アヘン取締り欽差大臣だった。
林則徐のアヘン取締りから、イギリスが攻めて、林則徐のパージ、そして南京条約、というのがアヘン戦争の超簡単な経緯です。「南京条約」なので、この南京ですよ。南京条約に関してはまた別の場所で。⇒
その後、太平天国の楊秀清(など)が使い、天京事変と天京陥落のときに破壊されるんでしょうね。その後かつてのようには再建できず。中華民国時代には役所として使われ、日中戦争時代へ。そして、太平天国博物館として庭園も、ということみたい。
江南の庭園
蘇州の庭園も再建だもんね。
そうですよ、この感じ……

コスプレイヤーたちもいないわけではないし。結婚写真を撮ろうとしてる人たちもいた。
上の方に上がれるんだけど、いやー、まだ南京旅行の前半です。というよりも前の日に南京に到着したばかりだよ、蘇州のように滑って尻餅ついてはいけない。ただぐるぐるまわるだけ。

平日で天気もあまり良くないからか、蘇州の庭園ほど混み合ってないので、結構ゆったりできました。水が死んでるのは、蘇州同様です。
乾隆帝は蘇州を愛して何度も行ってるけど、南京にも来てます。そもそも、瞻園と名づけたのは、乾隆。

白壁も美しい!
建物の全てが博物館状態というわけでもなく。こんな感じで、復元してあるところもある。↓

雨が降り始めたので退散。

南京と蘇州にまた来るの!?!?太平天国のために!?!?蘇州だけでいいや
天朝宮なんだよ、朝天宮じゃなくってさあ。そして総統府なんだよなあ。というところの続きなんですが。
今回さー、六朝博物館に行く前に総統府の前を通ったけど、中華民国は後回しだったんだよ。正直なところ、まーじで興味がないもん、中華民国。びっくりした?びっくりするかもしれんが、姉さんは「中華民国」にも「中華人民共和国」にも興味が薄い。六朝博物館から総統府の方にもどらなかったんだよね。
唯一の「総統府」写真はこの二枚。まずは六朝博物館に行く直前です。順番に記念撮影してるんだよね、みんな。あいぽんのクリーンアップで消してるよ。

興味がないながら、史跡として一応撮っておいた。撮影の順番待ちすることはないので斜めなのである。頭の中は「❤︎三国志❤︎三国志❤︎」だったから。
もう一枚は六朝博物館の↓。(のちに城壁博物館にもあったんだけど、この日はDay 3、南京に着いてようやくまともに観光できるようになった日だから)

庭園もあるねえ、と思っただけだったよ。写真としては、後ろはちょっとぼかしたいよね。しかし今回は、後ろが割にはっきり撮影できててよかったよね、じゃん。
実はこの日は、六朝博物館から地下鉄と徒歩で太平天国歴史博物館に来てる。直接徒歩で来れたと思うけど、ぶらぶら見て回りたかったのもあり、寄り道をして地下鉄にも乗った。けっ。なんだよ、この日は太平天国デーだったのかよ。知らんやった。笑う。
この日の思考は、「三国志」と「明清」と「太平天国」と「中華民国」なら、三国志が最優先。中華民国を一番はじめに捨てる。太平天国は蘇州で見逃してるので、南京で見ないと他では見られないので、さっさと太平天国、駅からも近いし時間があったら「明清」のために「民俗博物館」だったの。
なお、李秀成(忠王)の忠王府は蘇州にあります。私が行き損ねた、蘇州博物館(本館)に忠王府は隣接してるんです。↓外側からだよ。ああーっ!本当に蘇州に行くしかないじゃないか。

中に結構色々太平天国ものがあるのだという話だけど、ここの主人は李秀成かよ、それなら(割に)納得。本人は蘇州にはそんなにいなかっただろうけど。
ちょっとさあ。「こんなところ、二度と来ねえよ!」と吐き捨ててる南京には総統府というよりも天朝宮を見に行きたいなと思うし。蘇州の庭園は、もうどうでもいいや。蘇州博物館(本館)以外にも行けてない博物館があるのよ。新しく考古博物館もできてるし。くそー。ほらほらほらほら、揚州もあるし。また来るのか?江蘇省……その前に洛陽行くべきじゃないん?洛陽だよ??いやその前に都市部の成都に長沙になどと思ってるところ。
揚州は体力的にも泊まらないと話にならんなと思ってて。上海から揚州に直接行って、揚州から南京を経由して蘇州に行くか、揚州から直接蘇州か……うーん。直接蘇州よな。運河の道。
太平天国歴史博物館への行き方&この日のぶらぶら
私は六朝博物館から西安門駅まで行って、地下鉄1号線の三山街駅まで行き、太平天国博物館まで来ました。それなりに歩きます。太平天国博物館までくると夫子廟方面まであと少し。そうすると科挙博物館があります。私は雨に降られて、太平天国で帰ったわけ。科挙博物館は月曜日もやってるんで。月曜日の予定だった(そしたらもっと酷い雨に降られたんだよね)
三山街駅の近くには南京市民俗博物館があり、太平天国博物館の帰りに民俗博物館に寄るつもりだったけど、こっちも庭園的かな?と思って寄らずに帰ったというわけ。エリア的に次にここに来るのは月曜日で、月曜日に開いてない民俗博物館はあきらめたのだが、民俗博物館にある甘熙宅第部分も太平天国が使ってるのではなかったっけ?破壊しただけだっけ?





