春秋時代、呉王夫差はこの南京の周辺の豊富な地下資源を活用したのだと、百度にあった。夫差は結局越王勾践に負ける。勾践は范蠡にこの地を発展させることにしたのだと南京の城壁博物館にあった。実際に范蠡像が南京にはあるっぽいしね。
戦国時代に入ると、越は楚に負ける。その楚が秦淮河が長江に流れ込む石頭山に城をつくる。その下が「金陵邑」なのだとあった。
https://baike.baidu.com/item/金陵/81362
その後名前が変わっても、「金陵」と言えば南京のことです。後漢時代には「秣陵」と呼ばれていたけれど。この地が大きく発展するようになるのは、孫権がここに拠点を構えてから。「建立帝王大業」から「建業」とした。そして、戦国時代の石頭山の城跡を整備して軍事要塞の「石頭城」を作った。
石头城 shí tóu chéng
というわけで、いずれにせよ。ここが戦国時代、飛んで孫権時代の城砦があった場所。
なんだけど。実はここは、その後六朝時代も使うし、五代十国時代には南唐が再度整備。
明はそれを元に城壁の中に組み込み、そのまんま清に突入。その後日中戦争時代には中華民国が抗日戦線として使い。現在でも軍が管理するエリアです。と言っても、地震のときにはここに逃げましょう、みたいなのとか。軍関連の遊園地もどきと博物館まであった。
すなわち、この場所は、孫権以来みんなずーっと軍事的に重要視してきたということ。「おーい孫権、お前の、」じゃないな。一番初めの楚王がすごいということだね。
清涼門から入った
清涼門↓
左側を切ってるんだけど、実は?左側にあるベンチで人が寝転がってたのよ。ホームレスっぽくなくて、なんか、普通?の?私よりも若そうな??男の人だった。
ピクニックしてたり、他にもベンチで寝転がってたり、春の長閑なお昼って感じでした。
以下、歩いた順番ではないので。そこのところはよろしく。
明の城壁
結構高いんですよ、この城壁。城壁のまんまの部分を歩くと足が痛かったよ。
現代では清涼山と呼ばれるここの土壌は赤いんです。下(河畔側)を歩いてたら、上から落っこちてくるって警告があった。

↓がわかりやすいと思う。一番下からレンガを積み上げてるわけではなくて、一部そのまま生かしてたりする。

この、ボコってなってるところのことかな。
孫権の後なのかなあ。とにかく、削れて、鬼の顔のようだと言われるようになったのだとか。
なお、中国語の「鬼」とは幽霊とか、死者とか。そういうやつ。
城壁の少し河畔側に亀石群というものもあるけど、明日香村の亀石みたいなのではなくて、赤土に小さい石が混じったやつがこんもりしてた。川縁で削れてこうなりました、って。
三国時代の遺跡
城壁から内側に少し外れると、こういうものがあった。

撮影ポイントの後ろ側に、恐ろしいものがあった。何って?針金で枠を作ってその中に小石を詰めてるの……座れるようにもなってたけど、あまりに恐ろしい。

中国が、というよりも南京って本当に、建築クラスタでなくても、多少想像力が働けば、「それはやめておくでしょ?」だらけの都市。体力的にというか、こういうのを見るのでいちいち「……うっわ……」と驚くので、精神的にちゅかれた……になりやすい都市だった。
城壁の側に行くと、「東呉第一軍事要塞」とあって、孫権が言ったとされてる。で、「石頭城」というプレートが↓にあったんだけど。

なんなんだろうね。烽火台を見過ごしてるっぽいんだけど、これのこと?上にも登れるようになってたけど、階段が急で狭くて、まあ、安全を取ったというわけ。なんか、上で人が腕組みして……眠りこけているようだった。左上にその人の頭がちらっと見えてる。
私が行ったのは、↓の左側だけ。多分右側には孫権と諸葛亮が一緒に登って諸葛亮が「いい場所ですね」と、この地の良さを言ったのだという伝説の場所とされるところがあるんだと思う。そっちは私は行かなかった。うん、なんかそんな感じなのね、と思って。

清涼山駅から歩いて行けます。あ、指出してるのは私じゃないよ。なんかそこらのカップルさん。多分この↑地図は古いんだと思う。清涼門駅は、↑の「広州路」と書いてあるあたりに出口がありました。


